ろーかる直送便 歴史散策・八重が生きた京都

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「八重の桜 京都編」が始まるのを前に八重の足跡をたどる歴史散策ツアーが 開催されました。 このツアーを引率し解説してくれるのは…ツアーは まず新島 襄 八重夫妻が暮らした新島旧邸を目指します。 最後は八重や 新島 襄たちが眠る同志社墓地へ。 スタート地点である 京都御苑は幕末 会津藩と 長州藩が戦った「蛤御門の変」の舞台となった場所です。 散策ツアー一行は八重が襄と暮らした新島旧邸へと向かいました。

その当時 教育は国の根幹に関わるという事で当時の京都府が 一生懸命教育にも力を入れまして日本で最初の小学校を造ったのも京都ですしそういう形で 女子教育にも力を入れようという事でこの女紅場というのを造りました。 女紅場を管理する京都府知事に予算の増額を じか談判した事もあるといいます。 だから ひとつきの休みもとれたのかなと想像しますが八重さん 確実に京都で 新しい人生を歩んだという証しが京都の復興と近代化のために教育に力を入れていた当時の京都府。

このパンフレットの文章を考えたのが覚馬を中心とした京都府の要人たち。 兄 覚馬が主導する京都近代化のプランに陰ながら参加していました。 そういうわけでこの博覧会の会場というのは山本覚馬が京都の近代化のために先鞭をつけたものが ある意味内国勧業博覧会として結実したその姿になってるんですね。 会津藩士たちは 幕末に京都の治安を守る任務に就いていたからです。 ♪~ここが 先ほど言いましたように会津藩主 松平容保が京都守護職を受けるにあたって京都での宿所にした場所でございます。

その蘇峰も 同じ同志社墓地の中山本覚馬の隣に眠っています。 そういうのは でも 多分新島 襄自身は 明治の早い段階で亡くなっていますからその新島の業績というのをちゃんと継いでいく同志社という母体があったという事とそれから 私はこれは想像ですけども八重さんが 昭和まで 88歳まで長生きをされますのでその力も大きかったのかなと思います。