作家 火野葦平である。 極細の万年筆で まだ 火野葦平若かったんでしょうね。 火野の芥川賞受賞に とりわけ注目したのは陸軍の報道部だった。 馬淵は メディア戦略についての著書を残した報道・宣伝の エキスパートだった。 馬淵には 新聞記者中心だった戦場報道を一新したいという思いがあった。 それを たまたま火野葦平が芥川賞を もらったと。 火野を 報道部員に抜擢する。 当時 中国国民党を率いていた介石は日本軍の非人道的行為を世界に訴えようとしていた。
そういう意味では「麦と兵隊」を読んで軍の担当官が「ありがとう」と言ったというエピソードが ありますけれどもその意味で言うと「生きてる兵隊」が書いた非常に ある種 暴力的で荒廃した兵の姿とは違うそういった兵士の像というのが火野のテクストの中には 多く書かれているんじゃないかと思います。 「土と兵隊」は 陸軍の全面協力の下映画化され撮影には現地の部隊が参加した。 ペン部隊の結成には軍部とともにマスメディアを統制する機関内閣情報部が関わっていた。
日本軍は開戦直後に フィリピンに上陸。 フィリピンで 報道 宣伝の先頭に立っていたのが 人見潤介だった。 オードネル捕虜収容所だった。 フィリピンの人たちに向けた英語雑誌。 オードネル捕虜収容所では多くのフィリピン人捕虜が病で 命を落としたという。 火野も 時には 数日間にわたって収容所に泊まり込み捕虜教育に当たった。 精神教育が終わると 日本軍は捕虜を解放し 故郷へと帰した。 この年の11月には 第1回大東亜文学者大会が開かれた。