こだわり男とマルサの女(2) 伊丹十三 「お葬式」への道

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日本映画が振るわなかった時代大ヒット作を相次いで生み出した映画監督です。 やっぱり 伊丹さんは今の日本映画界の状況からは想像もできないぐらい当時って 日本映画が本当に マイナーなもので…。 エンターテインメントとしても社会性のあるものとしても伊丹さんの映画っていうのはそれまでの日本映画の流れを変えてるんですよね。 だから 僕 最初に映画監督というのは伊丹十三的な事をしなければいけないと思ってしまったので…。 日本映画の流れを大きく変えた伊丹十三。

伊丹を敬愛する学者…大嫌いなんだけども…スノッブなものっていうのがね。 これとは言わないけどこういうものとかね同じように 外国の人が日本のものを持ってきてこんな すばらしいものがあるよと言ってくれるようなものを我々は父祖伝来 作ってきたはずだし今だって 作るだけのキャパシティーはあるんじゃないのっていう形で日本人を叱咤している訳であってそこに あるのっていうのは教育者の悲しみなんですよね。 実は 伊丹は エッセーの中でヨーロッパを礼賛する一方日本については 辛辣な言葉を書き連ねていました。

というのが 彼の生涯の大きなテーマだったかなとそして 彼の心の奥には何があったのでしょうか?このころの伊丹少年の絵の才能は先生たちも 驚くほどでした。 葉書なんかくれた時にジャン・ギャバンの似顔絵とかそういう絵が描いてあって高校時代の伊丹は髪形も服装も ほかとは違いフランス語の詩を原文で読むなど目立った生徒でした。 これ以降 十三が父 万作について語る事は伊丹さんも今まで 2冊 出してるけども別に 冬じゃないのに炬燵に入ってそれで 天井から 輪ゴムにボールか何かをぶら下げて猫に じゃらしててね。

岸田が書いた「ものぐさ精神分析」を読んだ伊丹は自分の心と素直に向き合う事ができるようになったと言います。 岸田と共に ふるさと 松山へ講演に行った伊丹はある場所へと岸田を連れていきました。 別に 僕を連れていく必要はないと思うんですけど伊丹万作さんのお墓に。 弱虫 弱虫!なぜ逃げるんじゃなぜ逃げるんじゃぼんぼん 見とけ! 喧嘩はこうするんじゃ! いいか?伊丹は 父を失った この少年に自分を重ね合わせたのです。

明治維新以来30代 エッセーでヨーロッパ文化の すばらしさを説き戦後日本の貧しさを批判していた伊丹。 当時の夫婦をよく知る…伊丹に 松山にある自分の会社のCM制作を頼んだ事が縁で親しくなっていました。 伊丹十三は…聞いてて 非常に「ふ~ん」という話になって…。 グラフィックデザイナーの佐村憲一には台本から ポスターまでの一切のデザインを任せました。 後に伊丹映画の常連となる俳優の津川雅彦。 伊丹は この映画について「ふるさとにまつわる映画」と書き残しています。