特集・明日へ支えあおう 被災地の今を知っていますか?

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あなたは被災地の今を知っていますか?これから2時間にわたってここ、仙台放送局を拠点に、各地を中継で結ぶ生放送でお伝えしてまいります。 岩手県釜石市、宮城県亘理町、そして福島県田村市です。 さあ、続いては宮城県出身のマギー審司さんに、亘理町から出題してもらいます。 ということで、僕からは同じ宮城県出身の高橋ジョージさんに出題したいと思います。 実は僕が今いるのは、宮城県の亘理町なんですけれども、ここは暖かい気候を利用して、イチゴの栽培が盛んだったんです、こちら。

お2人には私のほうから質問させていただこうと思うんですけれども、数字です、NHKではネットクラブを通じて2年半たった被災地への関心、今どうか聞きました。 それでは早速、被災地、釜石からの防災授業です。 あのすぐ脇に、この地域の中学校である釜石東中学校、そして鵜住居小学校がありました。

それに従って子どもたちは、学校の指定した避難場所ではなく、ここまで、できることの全部をやってのけてくれたということなんですね。 率先避難者たれ、この3つを、避難三原則として子どもたちに教育してきたということなんですね。 当時、釜石東中学校3年生で、生徒会の中にあります防災委員会のリーダーを進めていました。

このてんでんこの教え、自分の命をしっかり守るということ、これが一番大事なことだというふうに思います。 高橋さん、どう思われますか?そうですね、やっぱりみんなで助かろうという気持ちは大事だと思いますけれども、まず自分の安全を確保しないと、冷静にならないと思うんですよね。 でも、今、先生がおっしゃったように、もしこれを今聞いて、学んだことは、まず自分の娘に、まず自分の命を守れということをやっぱり伝えていきたいですよね。

つまり、津波てんでんこは、家族の絆を切っちゃえということではなくて、家族の絆を大事にして、自分の命に自分で責任を持つ、そしてそれが信じ合えること、家族の絆で強く強くむすばって信じ合えること、そうすれば、みんなそれぞれ助かるんだということ、こんなことを教えてくれるんだろうと僕は思うんですね。 だから、自分の命を大事にするっていうのは、イコール家族を大事にすることにつながるんだろうなって改めて思いましたね。

語り部、そして現在は全国で語り部活動をされていますけれども、どうして始めようと思われたんでしょうか?最初は、震災の年、がれき撤去のボランティアさんとか、いっぱい来てくださいまして、皆さんにお礼を伝えたいと思って、当時を振り返ってお話しすることが、それになるかなということで、お礼の気持ちで話し始めました。

そうですね、本当に今この瞬間も、福島に生きてる中で、やっぱり日々、暮らしていて、ほかの被災地の方々の話聞いても、やっぱり通ずるものがすごくあるなと思いましたし、そんな中で、私たちがどう生きるのかという、先ほどお話にあったように、それがすごく問われてるなと、改めて感じました。 災害ってつらいことだけど、学ぶことは常にあるんだと、でもただ都会は都会のメリットもあるし、リスクもありますよね、防災に対しての。 宮城県南部の亘理町から、再建まではまだまだ時間がかかりそうだなという印象でございます。

亘理町も確かに津波がかぶって、その農地がたくさんあるんですけれども、そこから塩分を取り除くっていう作業をして、復旧して、そしてようやくその土地でもこういうふうに新鮮なおいしいものが取れるようになってきたわけですね。 もう本当に長い間、亘理町で農家をやってらしたお2人で、奥様のほうに実は今、持っていただいているんですけれども、これが伊藤さんが作っているもの、アセロラでございます。 アセロラ?亘理町で一番最初に作付けして特産になったのが、この伊藤さんのアセロラでございますからね。

ただ、元に戻れればいいということでもないだろうし、復興のリーダーの一人でいらっしゃる渡辺さん、今、被災地の復興に当たって、一人一人の暮らしの再建にあたって、一番大事なことはなんだと思いますか?すごく先ほど、高橋さんもおっしゃってたみたいに、足止まってる方々を支え続けるのが、難しくなってきているなと思います。 そしてそのお隣が、去年の年末、津波で壊れた自宅を直して、一つにはやっぱり、震災でいろいろ体験して、体験って、そういう被害に遭って、心に揺れる心配事を持ってる。

木村さん、木村さんは、戻ってきたあと、生活はどんな状況なんですか?やはり今もお話し合ったとおり、人が減ってしまっているっていうのがあるんですが、僕は生まれ故郷がこの荒浜だったので、戻んなきゃいけないっていう、なんか勝手に自分自身で心理的になってしまって、衝動的に戻ってきたんですけれども、やはり子どもも減ってしまっていて、そういう中で人口減少とともに環境がだんだん悪くなってきて、子どもが少なくなったっていうお話ありましたけれども、クラス、あるいは学年でもいいかな、どのぐらいお友達いなくなりました?約14人ぐ

頑張り過ぎないも大事だなとは思っているんですけれども、私自身が18歳で被災して、両親が神戸をいったんおいて、大阪に行くという選択をしたんですね。

緊急時に県などが操作できない場合、自主防災組織に余裕があれば、ゲートを操作できる。 果たして、そんな余裕があるのか?一方、この夏ようやく海開きを再開した海水浴場があります。 福島の復興を考えるうえで、そして早期の帰還を目指す避難指示解除準備区域となっています。 この避難指示解除準備区域に、町が一部指定されているのが、今、きょう中継が出ている田村市になります。 都路地区、午前中はよく晴れていたんですが、ちょっと雲が出てきました。

もうすでにこちらで長期の宿泊を開始されているということなんですが、このペンションの本格的な営業はまだですか?一応知人、知り合い、それから関係者の方は時々お見えになってます。 そのお隣は、このペンションのすぐ隣で農業を営まれています、渡辺さんご夫妻です、渡辺さんも、もう長期の滞在をされているということなんですけども。

根内君自身、これから先、自分の将来、どういうふうに描こうとしています?将来は自分、整備士になりたいんで、いったん福島を離れるんですけど、就職は福島に戻ってきて、自分のできるかぎりは福島を支えていきたいとは思っています。

本当は戻りたいのに、戻れないっていう、普通の生活ができなくなってしまっているというのが、なんとも、じゃあ私たちは今、東京にいる私たちが、逆にどうしたらいいんだろうって、何ができるんだろうって、すごく考えさせられそうですね、そして震災後に福島に戻ってきたという鎌田さんにも伺いたいんですけれども、戻ってきて、福島の女性の支援活動も行われてきましたけれども、そういった立場で福島の何を伝えたいと思いますか?やはりこれからの世代についてということは、若い世代がやっぱり福島をどう生きていくのかというのは、すごくやっぱ

どうですか?みんなでこういう気持ちっていうものを考えていかなきゃいけないということですが、そういう中で、何か今、このタイミングで坪井さんが一番訴えたいことっていうのやっぱりわれわれも夫婦で一日も早く帰りたいってこともあるわけですから、それに向かって周囲というか、特に関係者、政府関係者、そういった方々に、少しでもやっぱり努力してもらった形で、われわれの悩んでいること、そういうことをやはり解決してもらえればなというふうに思いますね。

その中で、やっぱりその正解がない、先ほど皆さんおっしゃられてたような、一人一人いらっしゃれば、十人十色の福島があって、そういった中で、生きることっていうのが日々問われているということは、なんていうか、想像力の上でしか語れなくても、たぶん、お話ししていく中で一緒に考えられることって、たくさんあると思うんですけれども、なかなか触れづらい日々の暮らしの中で、触れづらかったりもするので、そういった意味では福島っていうくくりではなくって、たぶんいろんなことを皆さんとともに考えていかなければいけないんじゃないかなとは

本当にみんなが自分のこととして考える、いい意味での風化、それが当たり前になるというようにするには、何が求められているのか、福島・田村におられる和合さん?どう思われますか?沈黙をしないことだと思います。