いつか来る日のために「証言記録スペシャル リーダーの決断」

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今 あの東日本大震災を振り返ってどのような思いをお持ちですか?あの当時ですね 宮城県沖地震これ 指摘されておりまして宮城県沖地震をターゲットにさまざまな訓練 取り組み防災教育というのを一緒にやっていたつもりです。 宮城県山元町立中浜小学校の校長…マニュアルでは 避難所は高台にある中学校でした。 会社のリーダー 橋さんの的確な判断で岩手県の山田町立船越小学校の職員…津波の危険を感じて児童と教職員など159人を山の上に避難させました。

最終的に 避難場所は特定せず校長である麻生川さんが地震発生時に判断すると決まりました。 実際は このような内部の方まで大きく津波の被害があった訳ですけれども避難所や避難場所だった所も沿岸部はもちろんですが赤くなっている地点はこれは 今村さんからご覧になってどのような事ですか?過去の実績に基づくハザードマップというのはそれで十分である訳ではありません。 宮城県七ヶ浜町に住む…あらかじめ自分たちで作っていた防災マップでお年寄り40人以上を避難させました。

しかも 一時避難場所の標高を知っていて3メートル以上になったらば移動しなきゃいけない。 地震発生後の午後3時56分大津波が空港を襲います。 地域で唯一高い建物である空港に周辺住民など およそ1,600人が避難してきました。 避難した人たちが空港を脱出できたのは地震発生から2日後の事でした。 このまま多くの避難者を抱えていては病院の機能が維持できなくなる。 動けない高齢者などを除いたおよそ250人に病院から出て 別の避難所に移ってほしいと告げたのです。

海から3キロほどの地点に来たところで戻ってきた西城さんは集会所に行くと集まっていた女性たちに思わず叫びました。 本来は 今の状況を見たら皆さん 滞在して頂かなければいけませんがその後 周辺からたくさんの患者さんが予想される。 東日本大震災よりも 更に広域で大きな被害が出ると予想されます。 それを持って広域の避難場所に移動して頂く。 または緊急の避難場所に移動して頂く。 避難した高台の様子です。 保護者に あらかじめ避難場所を伝えていたため親たちが すぐに やって来ました。