♪~南の島から なぜ 横須賀にたどりついたのか?まずは 宮古島で上地家の歴史を追いました。 恵祐以前の男たちの名前は白川氏は 600年前から続く島で最も古い士族。 大正9年雄輔さんの祖父 恵祐は古い士族の流れをくむ 上地家の長男として宮古島に生まれました。 10代で 大阪に出稼ぎに出た恵祐は金を稼いだと言って 父を呼び大阪見物をさせています。 2等兵に始まり 翌年には1等兵翌々年には 上等兵恵祐が所属した部隊の職員表。
一歩 ジャングルに踏み込めば食料を見つけられないまま密林をさまよいマラリアや赤痢に倒れ次々と餓死していきました。 安治川は 水運が盛んだった昭和初期まで水の都 大阪の交通の要でした。 品太郎の勤めた水運会社が「大阪市史」に載っていました。 「明治大正大阪市史」という本なんですけどもこれのですね…ええと ここですね。 「大正6年7月丸正海運株式会社となり…」。 これが 大体 大正12年の地図でここに安治川が流れてるんです。 大正期というのは 基本的に景気がいい時代が ずっと続くんです。
中学で始めた野球は 足の速い名サードとして活躍していましたが母 コエは 大船駅まで義雄の見送りに行きました。 予想を裏切り 連合軍は義雄のいる島を飛ばして隣のモロタイ島に上陸。 戦後の宮古島は荒廃していました。 アメリカの軍政下に置かれた宮古島から戦後は 湿地帯にバラックが並んでいました。 宮古島は…宮古島は ちょっと離島やからねあんまり いないね。 宮古島からの移住者が多く住むという尼崎を訪ねてみました。
絶対 宮古島の方言 使ったらいかんよ。 叔父が 内地風に上地を名乗っていたので恵祐も 島の名前を捨てました。 叔父のパン屋で 1年 働いた後恵祐は 小さな店を借りました。 叔父の店を辞めて ついてきた和江と結婚。 「恵」の文字を継承する宮古島の一族の歴史を捨てて恵祐は長男に「克明」と名付けました。 自分の中では分からなかったんですけど酒を飲んで 暴力的になる度にやっぱり これは 戦争体験から逃れたいんだという恵祐が 40を過ぎた頃 出会った21歳の和菓子職人です。