鎌田さん 震災のあと鎌田さんは独自に医師団を組織されて医療の面からのサポート支援活動をされていますよね。 阪神・淡路大震災の時もちょうど 二番底といって震災後 3年目から4年目にかけて不安感や うつ病やあるいは 自殺念慮だとかが多くなったっていう事がかつて あったんですね。 津波で大きな被害を受けた雁部さんの工場は震災後 雁部さんは手を尽くしてなんとか 国の公庫から水産加工業では 魚を冷凍保存する金属製の箱など10万円以下の資材が多いのです。
ですからこういう再建した事業所が多ければ多いほど活気は出てくるしこういう働く場がもっともっと増えなくちゃ東北の復興って ホントは建物だけじゃなくて働く場の復興ってすごく大事なのにこれだと お寒い数字だなというふうに思いますよね。 津波から 3週間後流された自宅の屋根が渡邊さんは 今隣の多賀城市で暮らしています。 スマトラ島沖地震があったインドネシアのバンダアチェの被災者との交流のため現地を訪れたのです。
妹が 食堂の調理場に立つ父と渡辺さんを描いたものです。 現在 渡辺さんは市内の内陸部にある団地に母親と2人で暮らしています。 しかし 渡辺さんは震災後すぐに店の再建を諦め臨時の事務職として働きだします。 やっぱり また調理場に立つというのは つらかったですか?震災後 渡辺さんは 包丁を持つ事ができませんでした。 修さんが立ち上がっていくのにはものすごく大変な事だと思うんだけどもそれでもいい兆候があるというのはフロイトという精神医学者がこういう事 言ってるんです。
福島県飯舘村は深刻な放射能汚染に見舞われました。 福島から外へ出た人と残ってる人の分断とそれから この飯舘村のようにお年寄りと若者との分断とそれから 20kmゾーンの中で補償がもらえている人とでも 人間にとっては ものすごくふるさとって 大事なものだからここを なんとかしてあげないといけないって感じがしますよね。