東日本大震災で目撃した光景を小学1年生の少女が描きました。 「大震災の事を作文に書いて下さい」。 子供たちの言葉が映し出した大震災の姿。 その少年は 石巻市立渡波小学校に通っていました。 智幸君の父 幸雄さんはあの日 地震発生のあと すぐに市内にあった 勤め先から自宅に向かいました。 家には おじいさん おばあさん高校生の長男そして 学校から戻った智幸君が いました。 ♪~智幸君は 作文の最後をこう 締めくくっています。
今年6年生になった 姉の…4年生になった 妹の…今でも 車で逃げる途中で見た津波の記憶は 消えません。 津波があった日の夜に山の中の車の中で 春菜からそのあと 一家は山の中から 近所のお寺に移り3か月間 避難生活を続けました。 「ほんとに避難所なの」ってびっくりされるくらいこの作文を書いたのは家族で一番手のかかるやんちゃな高校1年生啓史君でした。 体育館にも津波が入ってきて俺は 妹を背中におんぶして人混みを かき分け校舎に向かったのですがみるみるうちに波が押し寄せあっという間に腰まで 水につかりました」。
まだ 避難所暮らしですが津波に追いかけられながらも生き延びた命これから 何事にも負けず一生懸命生きていきたいと思います」。 岩手県 大小学校の5年生だった八幡千代さんが避難所で書いた作文です。 三陸海岸一帯に大津波が押し寄せました。 岩手県 田老村の子供たちが津波の体験を作文に書き残していました。 そして 2年前 生涯2度目となる大津波に遭ったのです。
布団を着たまま死んでいる人もあれば津波でみんな 持っていかれたもの。 アイさんは津波で家族全員を失い孤児となった境遇を「津波のこり」という言葉で表しました。 しかし ふるさとへの思いが募り栄子さんには 幼い頃から津波の教訓を忘れまいとする両親の姿が印象に残っていると言います。 昭和40年代まで 田老地区では防災訓練の日など 折に触れてアイさんたちの作文が朗読されていました。 倖太朗くんは 津波で掛けがえのない牛を亡くしました。 津波が来ても運が良ければ生き残ると牛を運動場に出したのです。