三陸鉄道の中で 津波の被害が最も大きかった北リアス線 島越駅です。 ひとつき後の全線開通に向け線路や駅舎の建設がここと久慈の間の 71kmを三鉄は結んできました。 復旧は段階的に進み おととしの春島越をのぞき 開通しました。 漁星君は島越の1つ手前の駅で降りて不通区間を結ぶ臨時のバスに乗り換えます。 家は 島越の人たちがまとまって住む仮設住宅。 震災4か月後 仮設住宅に入り暮らしが落ち着くとすぐに海に出た福忠丸。 港の隣で工事が進む 島越駅。 三鉄沿線でも指折りの美しい海が広がっていた島越。
震災の僅か5日後三鉄は3つの駅を復旧。 去年の春部分開通したばかりの吉浜駅。 列車の数も 震災前より少なくなっていて平三郎さんは トラクターに乗り込み港へ向かいます。 津波のあと 平三郎さんたちは漁師全員が船を持てるまで去年 6月5日。 ウニ漁も 三鉄も完全復活まで もう少し。 三鉄の線路を押し流し田畑も家も のみ込んだ津波。 津波よけの盛り土の上に線路が敷かれる予定です。 4畳半二間家族8人での夕ごはん。 チキンだから。 チキン言うな うるせえな。
人々の暮らしと共にあった三陸鉄道。 三鉄開業までの道のりを知る長老です。 三陸に鉄道を通す動きは明治時代に始まります。 当時 陸の孤島と呼ばれた三陸は救援が遅れ 被害が拡大。 死者 行方不明者は3,000人を超えました。 漁師も農家も 再び鉄道建設を求め動き出します。 バンザイ バンザイでね。 当時 地元の役場職員だった伊藤信也さん。 鉄道の運営を 地元の自治体などが引き継ぐ案でした。 年が明けても 三鉄の復旧工事は続いていました。 仮設住宅の集会所に 工藤さんたち島越の女性が集まっていました。