地元の高校生や大学生商店主に 語り部のガイド人から言われるまでもなく自分の中でも手を挙げてちょっと ご意見を頂きたい。 この間 朝4時くらいですかね…その時も 津波注意報とかが出たんですけどもその時 逃げる 避難する人はほとんどいなかったんですね。 復興 復旧するには私たち気仙沼の者にはすごく いい事なんですがご案内するのにすごく大変な事を感じてます。 気仙沼観光協会が窓口になり全国の自治体関係者 観光客修学旅行生などを案内しています。
だけど やはり前の津波の時の要するに教訓といえば教訓が教訓が どうして伝わらなかったかという事が今 非常に大きな問題なんですがもう一度 振り返ってみます。 その37年後の昭和三陸津波。 三陸沿岸は 何度も大津波を経験してきました。 三陸沿岸の漁師町…対象の一つが…こちらですね。 食料の備蓄部屋調理場 居住スペースなど震嘯記念館は 戦時中は軍隊の兵舎として利用されたり高度成長期には学校や集会所になったり時代とともに津波の記憶を伝える目的が失われていきました。
12m以上の津波が襲った津波到達点に去年 「石碑」ではなく「木碑」が たてられました。 吉田君は 当初石碑をつくろうと考えました。 しかし 昭和三陸津波のあとにたてられた石碑を見て石碑では また存在が忘れられ教訓が伝わらないのではないか。 吉田君は地区の自治会や 製材所を回りその輪は住民たちに広がっています。 こうやって 若い子たちでも興味があるっていうのといろいろ話したいとかっていう人たちの…そうです!語り部が 地元の人を案内し住民同士 あの日の体験を共有しようというものです。