きょうは50年前、金曜日、最初はいま旬☆市場、リポーターの西村美月さんです。 仲卸で53年ということは前の東京オリンピックのころにもこタイですよ。 おっしゃるとおりね、昔からお祝い事に使うときには、こういう姿づくり、それから姿焼き、タイの普通のお刺身も、もちろんお祝いには使いますけどね、これが典型的なお祝いの飾り方です。 さて、前の東京オリンピックからちょうど50年という節目ですけれども、10月10日といったら、お魚にとっても大切な日なんですよね。
あのオリンピックは、このような会場の施設だけではなくて、当時、道路などの整備も進んで、街の様子も大きく様変わりしました。 伊東さんも当時、団地住まいをされていたということなんですが、中継するのが、オリンピックが開催された年に入居が始まった、東京の北部、足立区です、花畑団地です。 さあ、こちらの花畑団地ですけれども、当時50年前は木造の建物が当たり前だった時代ということなんですけれども、このように鉄筋コンクリートで5階建てのこの団地というのは、まさに当時、最先端のお住まいだったということなんですね。
なるほど、冷蔵庫や洗濯機というのは、オリンピックのあとから?そうですね。 伊東さん、冷蔵庫とか洗濯機とか、なかったとおっしゃってましたけど、本当にきっかけにして、町並みの変化もあったっていうふうに伺ったんですが。 高速道路が一番びっくりしましたね。 高速道路?最初は4キロか5キロぐらいの長さで、日本橋辺りから芝浦までぐらいだったんですけど、けさの新聞見てたら、それが300キロに延びたって。 全国の高速道路じゃなくてね、すごいですよ、これは。
6年後の東京オリンピック・パラリンピックでは、さらに、招致活動で訴えた東日本大震災からの復興にもどう結び付けていくか、世界からも理解が得られるような大会にできるかどうかが問われています。 わたしの青春というテーマですが、こちら、茨城県取手市の眞由美さんから頂きました。 大学進学のために、長野の田舎から東京に出てきたのは、昭和39年、オリンピック開催の年でした。 初めての東京で見る初めてのオリンピック。 学生でしたので、お金がない中、高校時代に熱中していたバスケットボールの試合を観戦しに行きました。
こうした写真など、渋谷の街が東京オリンピックによってどのように変わってきたのか知ることのできる展覧会が、渋谷区の博物館で行われています。 展覧会では、選手村の様子や食堂、きょうは東京オリンピックの開会式からちょうど50年です。 じゃあオリンピックを成功させるには、この冷凍技術が必要不可欠だったんですね。 さあ、オリンピックで冷凍技術がどのように進んだのかを見てみましょう。 オリンピックを2年後に控えたある日、選手村の食堂を担当することになっていた、村上信夫さんのもとに、衝撃的なデータが届きました。
そして選手の皆さんを支えるために東京オリンピックではさまざまな人たちが、冷凍技術について研究をしていたわけですけれども、今、VTRご覧になって、いかがでしたか?非常に驚きましたね。 選手がトレーニングしている裏で、そういうふうに食事のことを研究して、食事が伴わないと、ベストなパフォーマンスできないんで、非常にこの研究というのは当時の東京オリンピックの活躍につながったんじゃないかなというふうに思いましたね。