この時代盛り上がりを見せたのが若者たちの大衆運動世界中で 既存の価値観に反旗を翻す運動が巻き起こりました。 白土三平の「カムイ伝」は農家の息子 正助の成長を描きました60年代に 若者たちが生み出した文化 カウンター・カルチャー。 そして サブカルチャーから政治まで幅広い評論活動を行っている宇野常寛さんです。 さあ まずですね こちらこれ 「ガロ」の創刊号なんですがこれを開けますと表紙の裏にですねなんと 佐藤さんご自身が評論を書いてらっしゃってそれも 白土さんのマンガに思想があると書いてらっしゃるんですね。
VAN JACKETっていう会社が教えてくれたアイビーファッションというね。 ですから 「平凡パンチ」も当然 VANという会社をかなり 気にして随分 記事にしてたっていう記憶ありますね。
つまり 戦争中はみんな ヒーローにならなきゃいけなかったんだけれども戦後に 「いや これからの社会は平凡という事に「平凡」という雑誌を作ったんですけどね。 この「平凡パンチ」で 一番時代が変わったと思ったのはそれまでは 「平凡」の時代には大衆っていうのは中卒で 地味な職業に就いて地道に生きてる勤労青年。 長井勝一さんっていってちょっと つきあった感じでは中小企業の おやじさんという感じの人で文化運動の指導者みたいな顔は全然 してないしね。
そして どんなマンガ雑誌だったのかお話にありました編集者の長井勝一さんが亡くなった1996年に作られた番組をここで ご覧頂きたいと思います。 現在 私たち 日本人は子どもから大人まで当たり前のようにマンガを手に取りそれぞれが お気に入りの雑誌を読んでいます。 長井さんを偲ぶ会には600人余りのファンやマンガ家この雑誌に関わったさまざまな芸術家や文化人が集まりました。 マンガがお金になる事を知った長井さんは貸本専門の出版を始めます。
毎号 雑誌の半分 100ページ足かけ8年にもわたるこの長大な叙事詩は物情騒然とした時代の中で全共闘世代のバイブルとまでいわれるようになっていったのです。 カムイの孤独な自由への闘いに自分自身を重ね合わせる者正助と農民たちの反乱に現実の大衆運動の未来を占う者左右両派の違いを超えて広く若者たちに受け入れられたのです。 もちろん妖怪への こだわりの原点は「鬼太郎」ですが鬼太郎誕生の衝撃的な事実がこの号に掲載されています。
さて 白土さん 水木さん以外の貸本マンガ出身の作家たちも新天地を求めて続々と「ガロ」に参加していきます。 このころ 行方知れずになっていたつげ義春さんは「ガロ」に参加する事で後の全てのマンガ家たちに大いなる衝撃を与えました。 67年 つげさんは水木さんのアシスタントをしながら次々と マンガ史上に残る名作を描いていきます。 永島慎二も貸本時代から長井さんとつきあいこの雑誌を支え続けた作家の一人です。
結局 長井さん亡くなっていろいろ考えて僕自身 マンガとは何かって分かったようなつもりでいたものが自分が考えもしなかった広がりを見せてすごい勢いになったんだけど分かったつもりでいたような気がする。 僕は 長井さんっていう方が本当の意味で僕たちのようなマンガの分かり方をしなかった人だと。 白土さん自身が書いたこの投稿募集はマンガ界に衝撃を与えました。
マンガや文化にとどまらず当時のライフスタイル自体に影響を与えたのです。 対象物をマンガにしてそれで 同じような年齢層に向けて発信するマンガっていうのは僕は その時意識してなかったですけど今 考えると そういう事の始まりだったのかなという気がしますね。 やっぱり… 何だろう?作品に 一つのアクチュアリティーっていうんですかねリアリティーを獲得するために無意識に作家が そういうものを呼び込むっていうんですか。 夢は夢として 高校卒業と同時に秋田の銀行に入ってね8年ぐらい「ガロ」 「カムイ伝」白土三平。
東映フライヤーズ対大毎オリオンズっていう試合僕は パ・リーグの大ファンなんでね見に行ったんですよね。 連載初期 読者感想欄に掲載された大学院生の文章からは最近 読み返して これを機会に読み返してみたんですけどもやっぱり 僕ね途中で読むのやめてますわ。 農民は 一旦 闘いに勝ちますが正助や一揆の首謀者たちは捕らわれ拷問によって次々と殺されていきました。 つまり 一番献身的な活動家であった人間を生かしてそうすると 大衆は 「こいつが犯人だ」という事になる訳ですよ。