NHKアーカイブス「シリーズ1964 第4回 モノづくり大国への道」

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この番組のまとめ

日本は復興を遂げ 高度経済成長真っただ中の年でした中でも夢の超特急 新幹線の誕生はNHKには視聴者の方が撮影した当時の新幹線の映像が残されています。 開発に当たった技術者たちを描いた番組があります800機が 沖縄戦など激戦地に投入され 散っていった。 旧日本軍の技術者たち。 19年に及ぶ執念の研究が世界最速の新幹線を生み出した。 技術者たちの思いを見つめます開業当時の思い出というと何かございますか?ちょうど 家にテレビが その年。

初めて乗ったのは?中学の3年生の時に修学旅行で新大阪から広島までっていう山陽新幹線の方に乗ったんですけど…。 3人は 旧陸海軍の技術者だった。 初代新幹線の時に確立されていました。 今日は 日本が誇る世界一の超特急新幹線に挑んだあの不屈の男たちのドラマを再び お伝えします。 新幹線を世に出した技術者たちである。 焼け野原になった東京・国立に復興の要 鉄道の技術開発に当たっている 研究所があった。 しかし 松平の技術は生え抜きの鉄道技術者たちから否定された。

松平は「車体の振動を吸収する台車を造れば河辺は 低周波の信号を使って列車を自動的に止める装置を研究していた。 全員の研究が 突き合わされた時一つの 超高速列車の姿が浮かび上がってきた。 蒸気機関車から電気機関車になったんですね。 三木 松平 河辺の3人が研究現場の先頭に立った。 松平 精振動研究の成果を試す時が来た。 実用化に向けた最大の敵は高速運転時に発生するすさまじい振動だった。 河辺は 列車の自動制御装置の実験に 明け暮れていた。

三木は 空気抵抗をぎりぎりまで そぎ落とす究極の車体フォルムを探していた。 銀河を設計した時のいろんな勉強したものが新幹線の構造体を設計した時の基本になっている訳です。 松平 精はついに 蛇行動を防止する新幹線用の台車を考案した。 そうすると研究結果を研究所へ報告する訳ですよ。 かなり手前からこちら 空気抵抗を調べるために作った 実験用の模型です。 試験走行では時速250キロに挑戦する事になった。 走り始めたらこれで計画どおりいくであろう試験列車の 最後のチェックが入念に行われた。

それにしましてもね今 新幹線というと開業以来 38年間 列車事故による死亡者がゼロでしょ?走行距離が13億キロ。 あの3時間ってどこから出てきたのかね?あれは だって 飛行機に負けないようにって事でしょ?東京~大阪間を 3時間で行けば飛行機に客を…。 だけど 新幹線が これまで4分置きとか 5分置きに河辺さんのATC。 この間に 初代の新幹線の車内に移ってまいりましたけれどもいかがです? シートも当時のままなんだそうです。

もう本当に血がにじむような その…それにしても 当時 そろそろ航空機とか あるいは自動車とかそういう中で 新幹線は どういう状況だったんでしょうね?世界的に見れば新幹線というのは もう時代遅れになってきてたんですね。 新幹線が出来てなかったらって考えると実は 日本の場合は設計をするエンジニアたちだけがすばらしいんではなくてそれを支える職人さん部品1本を作る職人さんたちが全部 エンジニアたちのやってる事を理解して そのものを作ってこうしたら もっとよくなるというアイデアを出せる国なんですね。

実は 1964年というのはさまざまな分野で日本が 世界を驚かせた技術革新の年でもあったんですね。 今日は 皆様を 1964年に生まれた驚きの技術の数々を巡る旅に国産初の旅客機 東京オリンピックの聖火を全国へ運んだのもこのYS−11でございます。 オリンピックに向けた日本初の高層ホテルの客室に短期間で取り付けるために考え出された この形。 1964年に生まれた技術革新の数々いかがだったでしょうか。