ここは 黒田官兵衛の祖父の代に初めて播磨へ移り住んだ土地です。 兵庫県姫路市の東JR神戸線 御着駅の北に黒田官兵衛が若き日を過ごした御着城の跡があります。 JR宝殿駅の北に位置する加古川市志方町に黒田官兵衛の妻 てるが生まれた志方城の跡があります。 城主は 櫛橋氏でしたが羽柴秀吉の播磨攻めで毛利方についたため秀吉方の官兵衛は 心ならずも妻の身内と戦う事になったのでした。
黒田官兵衛が 若き日に初めて戦の指揮を執ったのはこの川に近い 青山の地でした。 見通しの利く山頂から敵の動きを察知した官兵衛は官兵衛軍は 迎え撃つために西国街道を通って西の青山へ進んだと言われます。 迎える官兵衛軍は500ほどでしたが近隣の農民を動員して背後に大軍がいるよう見せかけて撃退します。 英賀城は 官兵衛が率いる秀吉軍に攻められました。
そこで生死の境をさまようという事で秀吉軍も危機に陥るし官兵衛自身も生死の境をさまようというそれでは 三木城そして有岡城とその後の官兵衛の活躍をたどってみましょう。 三木城を攻め落とすため秀吉の2人の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛は敵を兵糧攻めにするという作戦に出ます。 ここには官兵衛時代の姫路城の物見櫓が再現されています。 城主だった官兵衛は 姫路城が毛利氏攻略の拠点になるとし秀吉に献上します。 官兵衛が姫路城の城主だった時代の城の名残はありませんが姫路城は 毛利攻めに重要な役割を果たす事になります。