ファミリーヒストリー「片岡鶴太郎~羽子板と闇市の恋 下町・泣き笑い物語〜」

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この番組のまとめ

羽子板屋の お人形屋さんの娘さんですねって近所に言われて。 まあ 羽子板というのは 二とおりまず あるんですけどもこちら 現在 女の子が生まれた時の お祝い用としてかわいらしいまた美人画風の羽子板女の子に お渡しするっていう羽子板が こちらとそれから昔ながらの歌舞伎を題材にしたこういった男物の羽子板というのも ありまして歌舞伎のお好きな方が自分の好きな役者さんこういう芝居を今年 見に行ったから これだという事で 縁起物としてお買い求めになるって方も少なくないですね。 歌舞伎の羽子板は下町が発祥。

辰二 53歳戦争を境に 羽子板の仕事をふっつりと やめてしまいます。 一本だけ残された羽子板にはどんな思いがあったのでしょうか。 他の職人の羽子板をなぜ 辰二が持っていたのか。 今では 名人と呼ばれる職人が浅草の市に 初めてあの羽子板を出した 50年前。 辰二の羽子板は 再び繁子さんのもとに戻りました。 やっぱり羽子板に対する思いはあったんでしょうね。 忠雄さんが大切にしている自分の子供時代の写真。 忠雄が生まれた神田佐柄木町19番地。 実家から独立して神田市場の一画に 自宅を兼ねた果物屋を開きました。

中でも 荻野家のある亀ヶ谷村は 最も古く四代将軍 家綱の時代に開かれました。 絵図の一番右が 荻野家の敷地。 村の共同墓地にある 荻野家の墓。 その隣に眠る荻野兼吉は鶴太郎さんの曽祖父です。 荻野家でも女たちが織りでも この大柄を見て頂くと糸を取っ替え引っ替えしながら織らないと 織れないんですね。 芳蔵が下絵を描いた時代の所沢絣。 これで 私が今 絵を描いてるという意味と6歳で 親を亡くし所沢に預けられた鶴太郎さんの父。 昭和6年所沢の小学校に入学した忠雄は都会から来た子供として孤立しました。

戦後の所沢に仕事はなく忠雄は 東京の下町に近い成増の金属加工工場で働きます。 農家の息子ではないと知って興味を失っていた繁子もコロコロと変わるんですよ 私もレインボーで。 忠雄は 大好きな寄席や演芸場に繁雄を連れて通いました。 繁子と出会って2人の子供に恵まれ忠雄は 家族の絆を取り戻します。 連れて行くんなら 二人一緒に斎藤家に連れていってもらいたかったって。 再婚先で 7人の子供が生まれ居場所のない弘通は12歳で外に働きに出ます。 弘通の境遇を聞いた美江は一緒に兄を捜す事にしました。