シリーズ被爆70年 ヒロシマ 復興を支えた市民たち「走れ、三輪トラック」

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この番組のまとめ

東洋工業 現在のマツダの始まりです。 こんな焼け野原でも 立派な三輪トラックが つくれるという意地と根性を見せちゃれ!これはふるさとを取り戻そうと挑んだ親子と社員たちの物語です。 おい 行くど!はい!こ… これを塗りますけん!和美~!行ったら いけん!東洋工業は 爆心地からおよそ5キロ。 東に逃げた人々がたどりついた場所それが 東洋工業だったのです。 元東洋工業社員の梅田さんはその日 市内にいました。 東洋工業は行政や報道機関が入居する運ぶもんがのうてのう。

「決めた」って 何をですか?つくるんじゃ 三輪トラックを。 草木が生えん言うなら生えるまで人が住めん言うなら 住めるまでコツコツ コツコツ東洋工業が 初めて 三輪トラックの生産に乗り出したのは戦前の昭和6年。 悪路を走っても丈夫で壊れにくい三輪トラックは東洋工業も 三輪トラックの製造を2年間にわたって中止させられていたのです。 社長 わしらの三輪トラックを…広島に走らせてつかぁさい。 歯車をつくってくれんか?三輪トラックを… ほかの部品工場は?ほかは まだじゃが…。

本格的に民需転換じゃ!正式な申請を進めろ!はい!はい!よっしゃ~ 忙しくなるぞ!日本ゴム工業へ電話しろ。 GHQがトラックの生産を認めたんじゃ。 三輪トラックの荷台の部品をつくってくれんか?ああ 聞きましたよ。 材料がそろうまで待ってそれから一気に つくるのが合理的です!わりゃ 何にも分かっちょらん!これは わしらだけの問題じゃないんじゃ!コツコツ コツコツ つくり続ける。 恒次たちは 軍の施設から不要になった燃料タンクを払い下げてもらい三輪トラックの鉄板として使ったのです。