NHKアーカイブス「戦後70年 日本人はなぜ戦争へと向かったのか~外交敗戦〜」

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この番組のまとめ

国際連盟 脱退後 ことごとく外交に失敗した日本は無謀な戦争へと向かっていきました。 さあ 戦後70年の今年「アーカイブス」では戦争をテーマにした番組をお送りしていますが今日これから ご覧頂きますのは日本はなぜ 戦争へと向かったのか。 考えてみれば太平洋戦争っていうのは日本人の国民的性格がね凝縮している最良の教科書なんですね。 70年前 日本軍はここを奇襲攻撃してあの いわゆる 太平洋戦争は始まりました。

特に1929年の大恐慌以降 列強は日本政府もまた 世界をそう認識。 今回の証言テープから伝わってくるのは自分たちの行動は特別ではないという日本側当事者の楽観です。 これは 「満州国を認めない」など日本に 極めて厳しい内容だったと思われていますが「満州を国際管理にしてそこに 日本人顧問も起用する」など実は 日本に配慮した提言でもありました。 年明け1月政府は 対応を迫られた関東軍が許可を求めている熱河作戦ですが行動は 満州国の内部 すなわち長城の東側に限定するよう厳命しております。

1933年 蒋介石の国民政府は日本との停戦に応じ妥協姿勢に転換していました。 対ソ防衛を理由として国民政府を相手に中国北部からの退去を要求するという外交上の越権行為に出たのです。 かつて 日露戦争の頃は対外情報を総合的に判断する組織や外交方針をまとめて 各組織に従わせるリーダーが存在していました。 重光次官が ひねり出したのは国家を超えて共産主義に対抗する「防共協定」というアイデアだった共産主義に対抗するという名目で蒋介石に連帯を呼びかけようとしたのです。

有田の意を受けイギリスの説得に当たったのは…イーデン外相に対し 防共外交への協力要請を こう切り出した日本と力を合わせるよう中国には あなた方の口添えを頂きたいのです。 しかし イーデンは 簡単に吉田の誘いには乗らなかったベルリンの大島は 早い段階からイギリスが 防共協定に消極的な事をつかんでいました。 ベルリンの大島らの動きも監視していた イギリスは世界を股にかけなんとか孤立を回避しようとした防共外交の試み。

日本が開戦へと向かう大きな分岐点になった国際連盟からの脱退。 同時代の空気を知ってる人それから 同時代の一面をよく知ってる人が だんだん相対的に 数が少なくなってその時代を知らない人が増えてくる訳ですから歴史的解釈歴史的な分析っていうのが当然ながら 起こってくる。 私は 松岡が国際連盟脱退した時の事はもちろん知りませんけども当時の新聞等を見るとですね日本は 脱退すべし。 この 国際連盟からの脱退をはじめ日本の外交というのはことごとく思惑とは異なる方向に行く。

午前11時半 首相官邸で内閣 および軍のトップが国家方針を検討するいわゆる大本営政府連絡会議が始まったアメリカのハル国務長官には既に 野村大使から我が方の条件を手渡しました。 首脳部は 揺れ続けていた首相や外相 陸海軍の代表など各組織のトップが集うこの連絡会議が実質的な日本の最高意志決定機関でした。 今度は 南方準備に同意した連絡会議での南方準備に基づく行動でした。 首脳部としては 事前交渉で仏印への進駐は アメリカの態度を決定的に硬化させました。