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- NHK・東京
- ろーかる直送便 プライムS「“母子”に捧げた人生~画家 四國五郎〜」
- 2015年05月07日(木)
- 15:15:00 - 16:00:00
- 自身はシベリア抑留、弟は被爆死。画家・四國五郎が、戦争への怒りを表現するのに拘ったのは「母子像」だった。その思いを残された資料や家族の証言などからひも解いていく
15:19:19▶
この番組のまとめ
少年時代に磨かれた才能は後に開花し広島を代表する画家を生み出しました。 画家としての人生を平和を訴える事に捧げた四國五郎。 画家 四國五郎が多くの作品を描きその生涯を過ごした広島市。 大体 ここで 絵とか原稿とかいつも 光さんが見てた五郎さんの姿っていうのは?絵の具や筆などどんなに古びた道具も大切に使っていた四國。 戦後 四國は 少年時代には思いも寄らなかった社会派の画家になりました。 四國が題材にし続けたのは母と子の姿 母子像です。 昭和19年 四國は二十歳の時 満州へ出征しました。
「闘争心の鈍くなった時は直登の事を思い出して父にとってみたらやっぱり 戦争の体験それから シベリアでの悲惨な体験それから 直登さんの死戦争は駄目だ 原爆は駄目だそのための平和のアピール平和のメッセージについての絵を俺は描くんだというですねものすごい強い決心をしたと思うんですね。 昭和31年 四國は新たな母子像を発表しました。
家族が被爆した経験を持つガタロさんは僕が個展開いた時に四國先生に 葉書 出したんです。 被爆地 広島と向き合い続けた四國の姿をこれは 父がものすごく大事にしてた絵で原爆ドームのすぐ近くの相生橋っていうかつて 原爆ドームの北側の川岸に広がっていたバラックを描いた作品です。 おそらく 84年といいますともう こういうバラックがどんどん どんどん広島が復興してきれいになってたと思うんですね。 町が きれいになればなるほど被爆した建物広島赤十字・原爆病院を描いた母子像です。