ファミリーヒストリー「星野仙一~父と母の生きざま 燃える男の原点〜」

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この番組のまとめ

気迫あふれる投球で「燃える男」と呼ばれ闘志むき出しの監督として観客を沸かせ続けた…東北楽天を率いて 日本一に。 戸籍には愛知県幡豆郡饗庭と書かれていました。 玄道は 仙一の4代前高祖父に当たります。 「星野玄道は浅野春道の次男で三村玄澄に医学を学び成績は すこぶる優秀だった。 玄道の実の父 浅野春道は尾張名古屋藩に仕える藩医の一人。 明治30年代 日露戦争の頃には敏子は 僅か2歳でした。 戦前からの医師や看護師の登録記録が残されています。 昭和2年敏子は 16歳で看護婦試験に合格しています。

正田家があった岡山県瀬戸内市長船に向かいました。 仙蔵は 11歳の時に岡山県邑久郡美和村に住む正田半三郎と養子縁組みされています。 道子さんの祖母は仙蔵の姉になった長女 志加野です。 当時 正田家は女の子ばかりだったため仙蔵を養子に迎えました。 半三郎は仙蔵を農家の跡取りにと考えていました。 農作業を手伝いながら仙蔵は 一生懸命 勉強をしました。 正田家を出た仙蔵。 愛知県 名古屋市で再び仙蔵の足跡が見つかりました。 30代になった仙蔵は この製作所で働いていた事が分かりました。

終戦までに仙蔵は4,000人以上の教え子たちを航空機製作の現場に送り出しました。 軍需工場は 重点的に狙われ水島製作所も壊滅的な被害を受けました。 名前は「仙蔵」から ひと文字取って「仙一」。 家財道具を売りつくした敏子は子供たちを食べさせるために力仕事もいとわずに働きに出ます。 土にまみれて働く敏子に近藤さんは 働いた分より多く野菜を持たせました。 名古屋時代からの部下だった国人さんは仙蔵の家族を いつも気にかけていました。 そんな仙一に敏子は なけなしの蓄えから 千円を渡しました。