♪~資源が乏しく 貿易など国際社会との関わりが欠かせない日本にとって外交は 国民生活につながる大きな課題でした。 第1回の今日は敗戦後 国際社会で失った信頼を回復していくという重い課題に向き合った日本の姿を見つめていきます。 結局 ほとんどの連合国が日本に賠償を求めない一方戦争被害を受けたアジア諸国とは個別に協議し朝鮮戦争の特需に沸いていた日本では戦後復興へ向け新たな外交が動き出します。 こうした賠償をきっかけに日本の自動車会社などさまざまな企業がインドネシアに進出していきます。
ですから 個別に賠償を求める国に対しては賠償に もちろん応じますけれどもその賠償をですね日本が目指していた貿易立国という思いの中にうまく結び付けて日本の経済発展に持っていこうとしていた。 韓国が求めた請求権は戦時中 日本に動員された人々の未払いの賃金や財産などの返還でした。 朝鮮戦争で荒廃した韓国は当時 1人当たりの国民所得が日本のに満たず世界の最貧国に数えられていました。 1962年 大平正芳外務大臣がパクの側近キム・ジョンピル中央情報部長とこれに対して韓国では学生たちが反発。
インドネシアでは 多くの日本車が焼かれ11人の死者が出るなど大混乱に陥りました。 韓国では1987年に民主化宣言が出され日韓国交正常化のあと韓国政府が支払った財産の補償と戦没者の遺族への弔慰金は日本から得た無償資金の3.6%でした。 更に韓国政府の提案を受け元慰安婦 16人の聞き取り調査を実施します。 1995年女性のためのアジア平和国民基金これに対し 韓国では元慰安婦の支援団体やメディアがアジア女性基金に反発します。