8月15日の時点で戦闘態勢のままだった日本軍関係者は およそ800万人。 当時 玉音放送が流れたとはいえ国内外には なお戦闘態勢の将兵や軍属などおよそ800万人が配置されたままでした。 これらの将兵たちに戦争をやめさせるには玉音放送だけでなく戦闘停止の命令を出す必要がありました。 こうした電報は海軍部にも舞い込んでおり一方的に戦闘停止命令を出せばかえって暴発を招く危険がありました。 明確な戦闘停止命令を出せずにいた 大本営海軍部。
太平洋戦争やマッカーサーについて研究している歴史家のリチャード・フランクさんは当時のアメリカは 極めて厳しい姿勢で占領に臨むつもりだったとこの日16日 政府と大本営は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーから日本に宣戦布告したソ連が8月9日以降満州や日本の領土だった南樺太などに侵攻。 「17日 戦後処理新日本建設第一歩の重任を担う政府と大本営のトップが集まる最高戦争指導会議を開催します。
これに対し 渡邊中尉は冷静に こう答えたといいます。 当時 渡邊中尉の部下だった元特攻隊員の茂市光平さんです。 渡邊中尉は 昭和18年3月に慶應義塾大学を卒業。 徹底抗戦を唱える幹部に対峙しその命令を突き返した渡邊中尉。 茂市さんにはそんな渡邊中尉についての忘れられない出来事があります。 実はこうした行動を起こしたのは渡邊中尉一人ではありませんでした。 渡邊中尉の隣に写る第一三四震洋隊隊長の半谷達哉中尉も司令部幹部の徹底抗戦の要求を聞き入れなかったといいます。