そして 新たな国づくりにどのように臨んでいったのか一方で 新しい時代への希望をもたらす歌声が焼け跡に流れました♪「赤いリンゴに 口びるよせて」終戦直後の大ヒット曲となった「リンゴの唄」この歌を口ずさみますとですねあの 東京の焼け跡 闇市この歌は 戦後 最初に封切られた映画の主題歌でした。 今回の「NHKアーカイブス」は70年前の終戦直後の様子いわゆる 戦後の始まりを2つの番組を通して振り返ってまいります。
国を挙げての戦時体制の下で代用教員だった永井さんも子どもたちに 戦争の正しさと日本の勝利を教え込んできました。 高崎市の東国民学校では教師たち全員が集まり緊急の職員会議が開かれました。 職員会議では まず校長会で決まった対策が説明されました。 「当面 戦争に対する刺激的言動を避け事態の推移を見守る」という曖昧なものでした。 「職員会議は1時間近く続いている。
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥がこれ以後 全国各地に 続々と占領軍が進駐してゆきました。 一生懸命 運動して体を鍛えて今の大東亜戦争の敵を討たなければならない。 時々ね 放課後や何かで議論がありましたけどね結局 政府が 国が 終戦って言ってるじゃないかという事が非常に ウエイトとしては強くなりましたよね。 この会談で マッカーサーは非公式ながらも天皇の地位を認め以後 天皇に 占領政策への協力を促してゆきます。
職員会議では運動会を巡って議論が起きていました。 子どもたちを元気づけるために例年どおり運動会を行う事を決めたものの占領軍の目を恐れて 競技の内容を変える事が話し合われたのです。 会議の結果 棒倒しと障害物競走が運動会から除外されました。 教師の目を盗んで行われる盗難事件に永井さんは やりきれない思いを感じていました。 現在の高崎市立東小学校にはかつて 子どもたちが最敬礼をした奉安殿など戦時中の教育をうかがわせるものはありません。
私は やっぱり先生の責任を問いたいけれどもしかし こういう 何て言うかな本当に 永井さんのようなね本当に責任を感じて 自分から率直に 生徒にわびたっていうやはり戦後の日本そのものなんだな。 本当に今の場面は 私にとってはね戦後の日本の在り方の 何て言うかまあ 一番根本的なところまあ 私なんかの場合 その先生を個人的にね 尊敬してたからまあ…そして 先生も どうやら…あれは やり過ぎだったと認めていらっしゃるようだからまあいいと。
当時 日本の映画界っていうのは社団法人 映画公社っていうのによってですね製作 配給が 一元的に全部 統制されてた訳です。 話は ちょっと戻りますけどそれより2~3年前だと思うんですが我が日本軍が 南方で赫々たる戦果を上げてですねシンガポールに… 占領してその中に「風と共に去りぬ」のプリントが一本 あった訳です。 こうした 国土の荒廃の中で映画「そよかぜ」は戦後の企画 第1号として製作開始されます。
釘などはねみんな 所員を動員しましてねやっぱし お雑炊じゃおなかが もたないもんで裏方さんから文句が出てそれで 上の方が一生懸命 探してきてそして お握りを出すようになったんですね。 一個しかないリンゴでどうしようかという訳でスタッフで川の中へ飛び込みましてね。 エキストラに選ばれてそして キャメラの前に立った時はいっぱしの女優さんになったような気持ち。 ところで ロケ隊が出かけていった秋田ではリンゴの収穫が例年の。 進駐軍放出雑炊なんていうのありましてね。
ですけど あれ 本当はねあの「リンゴの唄」は あの時はまだ出来てなかったんですの。 それもこの「リンゴの唄」っていうのは歴史の中にも入ってきてるっていう歌がね歌謡曲の中から一つでも出たという事。 そしてこの「そよかぜ」を皮切りとして日本の戦後映画は やがて復興と隆盛の時代を迎えるのである。
「そよかぜ」は戦後映画 第1号として昭和20年10月11日 封切られた。 昭和16~17年ぐらいまでは日本映画も なかなか いい作品あったんだけど もう18 19…そして もう 敗戦の年になるとまあ 見るべき作品はないしそして 非常に まあ 単純な…何て言うかな 戦争スローガンがこう しょっちゅう出てくるような映画ばっかりだったからそれがないっていうだけでね…。