NHKアーカイブス「“虫の詩人”が伝えること~ファーブル没後100年〜」

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この番組のまとめ

この昆虫館の館長で「昆虫記」の新訳も手がけられこちらの昆虫館ですけれどもファーブルや昆虫の研究施設としてファーブルの伝記を おやじにもらったんです。 それを ずっと一生自分で見た事だけを画家の安野光雅さんがファーブルゆかりの南フランスを訪れその生涯を追った1988年の「NHK特集「昆虫記」の著者ジャン・アンリ・ファーブルの生涯をたどりそのゆかりの土地を訪ねてはスケッチをするようになりました。 地中海から南フランスプロバンス地方の言葉で生前に愛用したフェルトの帽子が2つ残っています。

古代エジプト時代には 丸い太陽を転がすような その姿がスカラベは 世界で およそ100種類。 ふだんは前向きに歩くスカラベですが玉を押す時は 必ず 逆立ちをして後ろ足で 玉を抱きかかえスカラベはやっと手に入れた糞の玉を一心に 自分の必要な場所に運んでいきます。 不思議な事に スカラベは坂道を下っていくよりは反対に上る方が好きという習性があり重力や 障害物に逆らって玉を押し上げようといたずらに苦労を重ねます。 そして アビニョンの北東20キロカルパントラの町で小学校の先生になりました。

大きな玉は 一口ずつ虫の消化管の中を通り過ぎほかに 何も見えなくてもスカラベの休む事のない消化作用を十分すぎるほどに 物語っている」。 1853年 ファーブルはコルシカ島から アビニョンに帰りその染め物屋が立ち並ぶ町内にファーブル一家は 住んでいました。 アビニョン周辺の農家ではセイヨウアカネを栽培しアカネの研究で ファーブルはレジヨン・ドヌール勲章を受賞しました。 「昆虫記」が社会主義者 大杉 栄によって初めて日本で 翻訳 出版されたのは1924年 大正13年です。

家主からも追い立てを食ったファーブル一家7人は住み慣れたアビニョンを後に30キロ北のオランジュへ立ち退きました。 本当はこうだったんだっていうのが分かった時は 頭の中がくらくらっとするぐらいの感激があるものなんですけどもファーブルっていうのは朝から晩まで くらくらしながらね自分で いろんな大自然の秘密をつかみ取っていった。

昆虫の世界では何とも判断のしようもない磁石のような力に導かれてオスが 遠い野原からメスを求めて駆けつける現象があります。 ファーブルが 特に関心を持ったオオクジャクヤママユです。 ふだん いくら探してもいないヤママユのオスがこの部屋のメスを求めて 遠くから群れをなして やって来たのです。 コシブトハナバチの仲間がこの辺りのように乾燥して一日中 日の当たる場所に巣を作っているのです。 かつて フシダカバチという狩りをするハチが1854年 31歳のファーブルはデュフールの学説が不完全であると反論しました。

フランス学士院の実験生理学賞モンティヨン賞が贈られました。 こうして麻酔をかけられた夜盗虫は生きたまま 幼虫の餌になります。 中でも スジドロバチはガの幼虫を捕らえるために内視鏡で巣の中をのぞいてみましょう。 アオムシの体液を吸った幼虫は青く隣は 赤い虫の体液を吸って幼虫は 赤くなっています。 当時65歳のファーブルは既に 自然界の秘密 例えば環境 生殖 天敵 遺伝などの今日的問題に鋭く迫っていました。 その一つはナルボンヌのコモリグモといいます。