日本とブラジルの友好そして 日系人の長い歴史を祝うカラオケ大会2つの文化を併せ持つ人たち。 その歴史は 100年以上前の移民船から始まりました明治28年 移住希望者の多かったブラジルと国交が結ばれ母ちゃんと元気で行きなあよ。 うんと もうけてくるぞ!NHKには 日本からブラジルへと渡った移民たちを長年にわたって記録したドキュメンタリー番組があります小さな船に満載されたアマゾン移住者が暗闇の中を去っていく。
この激しいインフレの下であるぜんちな丸の乗船者はブラジルは強引な高度成長経済をとり農業国から工業国への道をばく進していた。 あるぜんちな丸はブラジル北部アマゾン河口のベレンに着いた。 7年目には採液ができ 生活は安定するといわれたゴムノキが大場さん!大場さ~ん 頑張れよ〜!アマゾンに入植する人たちの上陸は夜になった。 雨季のアマゾンに降り立っていった41人の人たちは今 どんな人生を送っているのだろうか。 アマゾン河口の町 ベレン。 16世紀から交通の要衝として栄え常に アマゾン流域への出入り口であった。
胡椒の産地 トメアスは ベレンから2つの川を渡り継いで 200キロ。 今 世界的胡椒の産地としてにぎわう町 トメアス。 貧しさと病の地獄に取り残された人たちにやがてばく大な富をもたらしたのは移住の途中 シンガポールで買い求めた僅か2本の胡椒の苗であった。 現ナマが舞うトメアスでは人々が 競って家を建てばく大なドルを懐に貧しい日本に旅をした。 このトメアスに入植したのが11人の青年と4組の家族であった。 石にかじりついても自分は やり通すという万策尽きた移住者 595人は集団で入植地を脱走し 帰国した。
ここには 久保田一族が3家族 13人で入植していた。 20年目の久保田農場はどっしりとした落ち着きを見せていた。 今 久保田 忍家の耕地は全部で10か所。 こっちのブラジル人はあんまり むちゃに使うと久保田スミエさん 77歳。 果物がね たくさん出来ておばあちゃん やっぱしブラジル来てよかった?よかったですね~。 もう 本当 自分の耕地を 一年中回ってみない事が多いですよ。 トメアスで一 二を競う胡椒王新屋敷一族の四男がノリコさんの主人であった。
どうして ブラジル人具合悪いの?どうして 具合が悪い…。 でも あれだよね結構 ブラジル時代 失敗してもまた 立ち上がる事ができるっていうんですか 割と簡単に…。 河口の町 ベレンから上流に2,000キロかつて ゴムの集散地として栄え現在はアマゾン開発の前線基地である。 これは 大場夫妻が最初に建てた家である。 大場さんが 町に外出したある日数人のブラジル人が 音も立てずに部屋に入ってきた。 店は 一段と整備され大場さんは事業の拡張に熱中していた。 1年後 大場さんの父が日本から やって来た。
大場植民地の計画をある人は 熱帯農業の壮大な実験場だったと言いある人は単なる水浴び場だと言う。 数年後 夫婦もブラジル永住を断念し 帰国した。 何日も何日も 船で行ってすごく ご苦労もいっぱい したでしょうし当時の 私も含めて そうですけど20歳前後の人たちっていうのは何か すごく海外に憧れてそこで 何か新しい自分の夢を見つけて何かしたいなっていう そういう気概っていうんでしょうかね空手家の町田嘉三さん。