私が守らなくてどうする?戦国時代の名将 真田幸村こと信繁の活躍を描いた今年の大河ドラマ 「真田丸」。 真田丸とは 大坂冬の陣で激戦の舞台となった砦ですが戦いの直後 破壊され 地中に埋められてしまったためにその実像は 謎に満ちています。 20万とも言われる徳川の大軍に僅か5,000の兵で 大損害を与える事ができた真田丸とは大坂の陣について記した同時代の記録…実は 大阪城の南東方向には真田丸があったと伝わる地域がいくつも存在します。
地中に残された真田丸の痕跡を探るためレーダー探査を行います。 果たして真田丸の一部なのでしょうか?長い間 謎とされてきた真田丸の場所。 見つかったのは 真田の名が残る真田山地区ではなくその隣の餌差町にある学校大阪明星学園の南でした。 400年間 地中に埋もれていた謎の要塞 真田丸の姿が浮かび上がってきました。 立体視で見いだされた真田丸は四角い台形のような形をしています。 現場の徹底調査から明らかになった真田丸は巨大な四角形の城だった事になります。 真田丸が四角く描かれた絵図が1枚だけ…。
まさにこの「摂津真田丸の図」こそが真実の真田丸を解明する一番の重要な史料手がかりと言ってよいと思います。 絵図によれば 真田丸は大きな四角い陣地とその北側に小さな丸い陣地がくっついたこれは 一体 何でしょうか?更に注目して頂きたいのは真田丸の中に描かれている赤い四角。 真田丸からの激しい銃撃により徳川軍の死傷者は一説には 1万5,000とも。
これまで 真田丸は大坂城と密着した小さな砦として描かれるのが普通でした。 それを理解するためには真田丸の主 真田信繁の半生を振り返ってみなければなりません。 徳川の大軍は 真田丸を目指し攻め寄せました。 天下を手中にした家康はいまだ 力を持つ豊臣家を葬り去ろうと大坂城を攻め落とすべく準備を進めていました。 家康の大軍を迎え撃つために…心の声今こそ 亡き秀吉様の御恩に報いる時だ!今すぐ 大坂城へ行こう!信繁は 紀伊国から脱出。 それは 大坂城と谷を挟み補給も退路も絶たれた孤立無援の城。
こうして 塹壕で弾をよけながら徐々に 真田丸に近づこうとした姿が 絵図に描かれていたのです。 それは 真田丸との距離がどれも 100m余りという事です。 真田丸には 特別に…こちらの銃普通の火縄銃の 2倍近くの2mにもなる巨大なものです。 巨大銃を擁した真田丸。 1か月にわたるこう着状態に陥った真田丸をめぐる攻防戦。 真田信繁と徳川家康最後の戦いが始まります。 そして 真田丸と大坂城に昼夜を問わず撃ち込みました。 申し上げます!それは 本当か?突如として現れたもう一つの真田丸。