数々の名句を残した俳聖 松尾芭蕉彼が 東北地方への旅を通して生み出したのが芭蕉が愛した東北とはどのようなものだったのでしょうか。 「NHKアーカイブス」 今回は松尾芭蕉の 「おくのほそ道」を取り上げた番組を通して皆様を 東北の旅へといざなってまいります。 これは芭蕉自身の問題ではなくて当時の俳句といわれていたものが言葉遊びから 心の世界を詠むつまり 和歌と肩を並べる文芸にやっとなったと。
それは 浄法寺さんのお宅が浄法寺さんが俳句としてですね芭蕉に 師弟の関係を結んでいられたんですか?さようでございます。 実に こう穏やかなね姿をしてる木であれが やっぱり 一部の最後に出てくるっていう事は次の その二部を前にして一つの安心というかそういう気持ちがやっぱり 芭蕉自身もあったんじゃないかなというように思いました。
継信 忠信兄弟は義経の家来となりその姿を見るに見かねたこの2人のお嫁さんたちが自分たちの悲しい涙を押し隠し夫の形見のよろい かぶとを取り出して勇ましい いでたちでお母さんの前に ひざまずき「継信 忠信ただいま凱旋つかまつり候」と挨拶し♪「なぐさめん いざいざ母を」私はね まあ あのこういう人間でございますからあまり こういう話に感動はしないんですけれども芭蕉は 雨また雨に降り籠められましてこの 籐中将実方の墓に詣でようと思ったんですけれども道が あまりに ぬかってとてもじゃないけれどもここまで来る事はでき
殊に この実方という人は在原業平と並び称せられている人ですから芭蕉は 特に来たいとは思ったんでしょうけれどもとうとう 来ずにしまった。 実方中将の すすき野田の玉川の よし宮城野の萩 名取川の蓼そして 末の松山の松。 鹽竈神社で 芭蕉は和泉三郎忠衡が寄進した宝燈を見て次のように書いています。 芭蕉が聴いた奥浄瑠璃。 芭蕉が念願の地 平泉に着いたのは江戸をたっておよそ1か月半後の事でした。 そうして 芭蕉が ここに至って義経の最期を見届けるような風景に接し何とも言えない気持ちになったんじゃないかと思います。
サイトウさんも ご一緒?そうです。 句会を開いてくれた 束稲吟社は大正時代から続く地元 平泉の俳句の会です。 10年ほど前から平泉に来る旅行者から句を募り俳句集を出しています。 ろうぜき者 そこを動くな!これ ろうぜき者!ここを何と心得る!ここは 伊達藩 尿前の関。 余は 関守 遊佐勘解由春宣なるぞ。 しからば 聞くが芭蕉は 平泉で何と詠まれたかの?「五月雨の 降のこしてや 光堂」という歌を歌ってる。 この地方特有のものとはいえさぞかし芭蕉を驚かせた事でしょう。
やはり なぜ 外すかっていう事になる訳だけど最初から 松島が目的地であるって事を書いててそこに その やはり松島の名句があるとこれ もう全部 頭から尻尾まで完全に 完璧にできちゃう訳ですね。 ここで抱いた壮大な疑問点っていうかテーマが 「おくのほそ道」あるいは 芭蕉自身を動かしていく… 後半動かしていく力になっていく。 今日 ご覧頂きました「おくのほそ道行」芭蕉が歩んだ道というのは5年前の東日本大震災で大きな被害を受けた場所ですね。