本当 チームというのはねベテラン 中堅 若手そういうバランスのよさの中で戦っていく訳ですけどやはり 若手の手本になるというその姿勢というのが非常に 若い人たちを引っ張ったというの ありますからまた チームが一つになったというのを感じられた戦いが数多くあったと思うしまた 本当 ドラマじゃないですけど大野さんが優勝投手になりましたが。 本当 25年前 振り返ってみてもやはり あの年の優勝というのは津田の存在というんでしょうかね津田のために選手が一つになって なんとか津田を勇気づけさそうと病気を早く治そうと。
山本監督は 津田を中心に優勝への秘策を立てる。 津田に津田 大野のまっすぐじゃ無理じゃけえ…最後 スライダーに変えさせてもろうたんですよ。 打たれる試合もありましたけどここで くじけちゃ津田に申し訳ないというような思いが本当 最後の優勝決定試合に非常に出たと思いますよね。 ふだんは そう見られてもいざ ユニフォーム着てグラウンド出てマウンド上がったら闘争心むき出しのあのピッチングですからそういうのはね我々 先輩でありながら見習うべきところは非常にありましたよね。
それでは 今も語り継がれる伝説の津田投手。 「本日は熊本県八代市からお越しの津田大毅くん 4歳の始球式でございます」。 広島カープのホームグラウンド…150キロの直球一本でバッターに立ち向かいファンを熱狂の渦に巻き込んだ男の舞台でした。 津田投手の信条は 真っ向勝負。 しかし 最後まで直球勝負に生きた野球人生でした。 手記は津田投手の最後のマウンドとなった3年前の4月14日対 巨人戦から始まっています。 この朝 津田投手は体の異常を感じていました。
3日後 広島大学附属病院に検査入院する事になりました。 社会人野球から広島に入団しました。 故障を乗り越えた津田投手は見事に復活。 リリーフエースとして広島優勝の原動力となりカムバック賞を受賞しました。 津田投手は 絶望のふちから何度も はい上がってきました。 『私も 一生懸命 頑張るから恒ちゃん しっかりして』俺 頑張るからお前も頑張ってくれるか?』うれしくて 涙が ポロポロ流れた」。 画面にはかつて出場した事のある夏の甲子園大会が映っていました。 津田投手は 山あいの小さな町で生まれました。
公式戦で 津田投手が初めて打たれたホームランでした。 直球勝負の強気なピッチングの陰で津田投手は いつも自分の弱気と闘っていました。 しかし 津田投手は僕がプロ入り初勝利がかかった時で津田さんが抑えてくれたら 僕は勝利投手になれた訳ですけどそれをね津田さんが結果的に打たれて「明日から また切り替えてやりましょう」って。 そうするとまあキャッチャーが明日 頑張ろうとかいろいろ慰めますけどね彼の場合はマウンドからパ~っと降りてきましてね「達川さん すいません!」と。
主人は もう すごく食欲旺盛になってましたからもう早く食べたいんですけれどもそれを言わないと絶対食べさせなかったんで。 後ではもう私が言う前に自分で「絶対よくなる絶対よくなる絶対よくなる」って3回言って福岡の病院に入院して4か月後の事です。 アスレチックジムで本格的にトレーニングを開始しました。 テレビでバラエティー番組なんか見てて私や大毅が横でゲラゲラ笑ってるのに主人は黙って…。