熊本地震から半年、震度7の揺れに襲われた町の中、がれきがそのまま残っています。 熊本県益城町では、大きく崩れた住宅が、半年たった今も、手つかずのまま残っていました。 熊本県内では災害関連死を含めて110人が亡くなり、避難所には、依然、不自由な生活を強いられている人がいます。 震度7の地震に2度襲われた熊本県益城町に、熊本ご出身の宮崎美子さん。 まだこんな傷痕があちこちに残る、ここ、益城町の未来について、そしてきょうはこの、こんな大きなそして、こちらも益城町役場となっております。
家族は全員無事でしたが、家の中は壁が剥がれ落ち、家財道具が散足の踏み場がないほどめちゃめちゃに。 岩下さんの家も、地盤沈下で基礎が傾き、最初の地震の2日前に撮った家の写真です。 3人の孫たちを自宅に迎えて、地震から1か月が過ぎた5月、熊本市内の賃貸マンションに入居することになりました。 7月に訪ねると、補修工事が進んだ自宅で暮らしていました。 しかし、補修工事はまだ途中です。 業者に人手が足りず、補修工事が思うように進まないんです。
僕は、阪神大震災のときに、ちょっと離れてたんで、大きな被害はなかったんですけど、例えばちょっとしたひびを修復したんですけど、10年後に、まさかの所から雨漏りが始まったりして、見えない所とかに爪痕がちょっと残ってたりするんで、なんかそういう所も、いつか、修復できるといいですね。 今週水曜日、東京電力の地下の送電施設で火災があり、都内の58万戸余りが一時停電しました。 下がって、下がって!水曜日の午後、埼玉県新座市の東京電力の地下の施設で、送電線のケーブルが燃える火災がありました。
ーに買い物に行ったり、植木のせんていしたりしていらっしゃる方々のある中に、ものすごいがれきの山がたくさんあって、なんか日常の中に、地震が起きるって、こんな恐ろしいことなんだっていうことを本当に痛感しました。 本当、どうやってこの町が立ち直っていくのかっていうことは、きっとこれから、どこの町でもこんな大きな地震が起きるか分からないこの国の先々を考えるためにも、きっと皆さんがどうやって、ここから未来を築いていかれるかが意味あることだと思います。
東日本大震災のときも、家の種別の作業が終わるのに何年もかかりましたもんね。 今まさに、その解体というところ、今、直面されている方が、理容師歴38年の石原さん、そしてスイカ農家のこちらの村上さんご夫妻なんですね。
豊田さんのお宅は全壊判定をされ二次まで半壊だったので、そのころは半壊は仮設には入れなかったんですよ。 家自体は、まあ、どうにか修理すれば住めるかなっていうのがありまして、やっぱり自分のうちに住みたいっていうのもありまして、息子たちと同居するのは、ことしになって4月、そのまさに地震前に、もう同居の予定で進んでたんですよ。
また、その活断層がどのぐらいあるのかっていうのも分からないですね。 地盤を整地しても活断層がなくなるわけじゃないんですよね。 だから活断層の上にある、これからも住み続けるのか、どうか、そういうことはこれから考えいかなくちゃいけないですね。 専門家の方は、1000年に一度ですからと、活断層はっていわれるんですけど。 恐らく、まだ住めるのに、壊さないと仮設住宅に入れないとか、土地の補修がないわけですよね。
益城町のボランティアセンターに取材をしたところ、そうしたものの分ける作業、これ、かなり人手がいるので、必要ですと。 これは益城町のボランティアセンターのフェイスブックで、いついつ、人手が足りませんというような、具体的な案内もあるということですので、ぜひそちらを見ていただきたいなと。 地震の発生直後、5月ぐらいは本当に全国からたくさんのボランティアに来ていただいたんですけれども、だんだんだんだん数が少なくなってきているんですけれども、まだまだやることはあります。
村上さんのSNSでの発信、その後のやり取りというのはどういうことなんですか?私も、SNSはあんまりしてなかったんですけど、SNSで現状をすぐに発信するっていうことを、あまり益城町でされてる方がいなかったので、何も慣れてなかったんですけど、やってみたんですよね。 具体的に、田原さんが書いてる復興住宅、災害公営住宅に対する期待、すごく大きいと思うんですよね。 自宅再建したいんだけれども、経済的余裕がないので、家賃安く泊まれる災害公営住宅に行きたいという方、結構いらっしゃるんですよね。
そして店内では、訪れた人たちが、村上さんはスイカ農家でいらっしゃって、道路が復旧するのが一番のお望みでいらして。 益城町って、やっぱり被災地って感じで、全国に伝わっちゃってるんですけど、もともとは本当に広い土地があって、豊富な湧き水があって、農業の豊かな、本当にいろんなものが取れる所なんです。 お便りであった、仙台の小学生から益城の小学校にお手紙が届いた。 益城というのは土地が広くて、いろんな側面があります。
今ね、益城町、復興計画を作ってるんです。 復興計画っていうのはとても大事で、例えば、暮らしの復興をどうするか、復興町づくりをどうするか、産業の復興をどうするかっていうこと。 つまりは、町の将来像を描くというのが復興計画なんですが。 例えば全部が避難した山古志村、新潟県中越地震。 あの村の復興計画のスローガンは、帰ろう、山古志。