「障害者は 不幸を作る事しかできない」という容疑者の主張が大きな波紋を呼びました日本の障害者福祉の父とされる糸賀一雄の言葉ですどうしたら一人一人の持つ光を大切にする豊かな社会を実現できるのか。 今日は 障害者福祉の先駆けとして知られる糸賀一雄の取り組みを振り返りながら考えてまいります。 やはり障害児 あるいは 障害者をどう見るかとかあるいは 具体的に地域で暮らしを作っていこうという点で言うとまさに 今日の障害者福祉のルーツ。
2人は 戦前から知的障害児のための教育に取り組んでいました。 糸賀たち3人は地元の財界を回って資金を集め昭和21年11月知的障害児と孤児たちの施設近江学園の設立にこぎ着けました。 学園の壁には 手を携え共に生きる人たちを理想とする近江学園の精神が描かれています。 最初の入園者は 知的障害児17人と8人の孤児たちでした。 昭和23年 18歳までの子どもたちの生活を保障する児童福祉法が8歳の時から 田村の家で暮らし近江学園開設と同時に一緒に移ってきました。 近江学園が開設されて4年。
焼き物の技術を身につけ地域の窯元に就職すれば信楽の町全体がいわば 授産施設のようになると期待していたのです。 信楽の窯元で障害者が働くようになって半世紀。 三波伸介さん 知ってますか?佐々君。 ここで働いてきた障害者は20人以上。 近江学園には人の手を借りなければ身の回りの事さえできない重い知的障害児も多くいました。 また 自分では起き上がる事すらできない重症心身障害児もいました。 「二重三重の重い障害のある子どもたちは特別に 隔離 保護するしかない」と考えていた糸賀。
更に 重症心身障害児の施設を視察し 大きな衝撃を受けます。 ここでは 重症心身障害児が周りの人たちと触れ合う事を実践しています。 動きまわる重症心身障害児と呼ばれた子どもたちも今では 50歳を越えています。 重症心身障害児一人一人の可能性に目を向け共に生きていこうとした糸賀一雄。 田村は 健常者と障害者が同じ屋根の下で生活を共にするおはようございます。 ここは 障害者と健常者が共に生きる社会を目指した田村が つくった村です。
その中で障害者も大切な働き手として生産の現場を支えている訳です。 「障害者と健常者が共に生きる社会であってほしい。 この家では知的障害者だけでなく里親として 4人の子どもたちを受け入れています。 一緒に暮らす4人の知的障害者は年齢も障害の程度もさまざまです。 障害のある人たちも一人一人 仕事を持ち一家の大黒柱 雅敏さんは障害者の共同作業所で木工製作の指導をしています。
私は これを聞きながらですねどうも これは…糸賀が言ってる事は個人の発達感だけじゃなくてね今の社会の有り様を非常に ズバリ言ってるなっていう印象を受けたんですね。 冒頭で 相模原事件に触れましたけどもやはり 社会の…容疑者の言動を育んできた社会のね少し 縦軸一辺倒の社会に対して糸賀の提唱っていうのは横軸を重んじようと。 つまり 障害問題を超えてですね社会の在り方を問うてるな。