特集 明日へ つなげよう

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この番組のまとめ

被災地にとどまらず日本全体に大きな衝撃を与えた東日本大震災。 まず千原さんは震災を機にご自身、何か変わったと感じることありますか?僕は震災のあと被災地に行かせてもらって何組かの芸人と一緒に行かせていただいたんですけどものまねをする芸人なんかはものまねをしてすごい皆さんが喜んではるんですよ。 きょうは中継が出ている宮城県石巻市には震災をきっかけに変わったという点でぜひ、ご紹介したい若者たちがいるんです。

遠藤さんの手にかかるとおしゃれなシェアハウスに変身!乾杯!震災後、石巻にやってきた若者たちの住まいとなり集まって語り合う場になりました。

そのときに一つ思ったのは僕、芸能の仕事してますから福島に通ってるうちにやっぱり原発の問題ってあるんですよね。 東京駅、出て2時間ぐらいには雪見温泉入ってるんですよね。 ところがこういうことになって畜産とか農業売れなくなっちゃって何か立ち上がんなきゃっていって自分らで立ち上がってインターネット販売やったりとかあと、いろんな同級生とか知り合いの店で、いわきでお店やってる人たちにいわき産の野菜、使わないかって。 話を聞いて生の声聞いて、それを発信したら福島から全国に発信できることができるじゃない。

ございましたので渋谷駅周辺のいろんな駅、鉄道であるとかビルの事業者が集まって共同して対策をしようということで帰宅困難者協議会というのが立ち上がりましていろんな活動をしているところです。 私どもも鉄道会社が共同事業でやっているビルでございますのでそういったところに積極的に参画をして、渋谷の街に役に立とうというような意識を持ってやっているところでございます。 実は、私どもショッピングセンターレストランが表に出ていますけどこのビルの中にはホテルであるとかオフィスであるとかっていうものもあります。

となると、今度、本当の自分のふるさとである東海地区でも、きちっと町を元気にするような活動をしたいなと思ってまた改めてそういう取り組みを始めたり大きな変化をいただいたというのが本当のことですね。 満里奈さんは実際にお子さんがいらっしゃって震災以降、子どもをめでるとか愛するとか精神的には相当変わったでしょ。 神戸市灘区にある西灘小学校です。 きっかけは東日本大震災のよくとし福島の子どもたちはその2年後歌が生まれた神戸を訪れ神戸の子どもたちと交流をします。

神戸の子どもたちが福島を初めて訪れたのはおととしの9月のことでした。 神戸に来てくれた福島の友達にまた会いたい福島をもっと知りたいという思いからでした。 福島で「しあわせ運べるように」を子どもたちと一緒に歌い続けてきた佐藤敬子先生です。 次に子どもたちが訪ねたのは南相馬市小高区。 指導を続けてこられた森田先生ですけどもことしは3年生の担任の先生になられたということで去年12月から指導を震災について教え始めたんですよね。

きょうは西灘小学校の卒業生そして、福島のことを学び始めたばかりの3年生に一緒に歌っていただきます。 竹山さんはどういうふうに思いますか?実際問題いうと修学旅行生の数とか圧倒的に減ってるんですよ。 普通に思うかもしれないですよねでも、それって本当の福島のリアルな姿で普通に子どもたちも外で遊んだりしてみんな普通に生活してるんです。

透明性を求められてる世の中になってるのになぜ、そこだけ何を基準にしていいのか何を信じていいのかっていうのは本当に思うし、最初のころは正直、怖いなとは思っていましたけれどもでも、こういう気持ちが継続すると、水俣の皆さんも50年たつのに、いまだに風評被害があるっていうのはものすごく今びっくりしたんですけどでも、そういう気持ちを持つのではなくて自分たちから能動的に何かを調べたりとか何かを知ろうという姿勢で私たちは消費者としてそれは知ろうとする姿勢は義務じゃないかなって「いろんな人がいろんな取り組みをしてはること

人災である点、風評被害がある点住民が苦しんでいる点こうしたつながりというのは震災前から過疎だったり人口減少などの課題に直面してきた被災地にとってはその地域そのものを立て直す原動力になっているんです。

ご依頼いただく方も関わる人間も全員が思いを持ってウエディングを通して石巻が、もっと明るく若い子たちに希望を与えられるような見直したいなって思ったときに、この町だったらこういう、おもしろい人たちがいるんだったら新しい働き方とかができるのかなと思ったときにちょうど豊島さんからお話をいただいて町の人たちとチームを組んで大きな組織だけじゃなくて自分たちが大切にしたいものを大切にできるような仕事の在り方っていうのを体験してすごく可能性を感じましたし自分としても本当にその仕事の相手の人を幸せにできてるっていうか役に立

苅谷さん、地元の方と一緒にここの橋通りCOMMONの常連ということで今度は常連ということで登場いただいております。 武内さん、私も石巻出身で石巻で生活してきましたんで大切な思い出のある町とか懐かしい町並みというのは新しい方がどんどん外から入ってきてどんどん変わっていくそれに対して若干寂しさみたいなものを感じる方々がいるってことも知ってますし気持ちも分かるんですけども武内さん自身はこうした動きをどういうふうに感じてらっしゃいますか。

ツイッターは#nhk ashitaを付けて64文字以内でお願いいたします。 被災地・岩手には震災の記憶の風化に危機感を持って活動を続けている人たちがいるんです。 震災以降、3月11日には毎年、欠かさず全国各地で号外を配布しています。 鎌倉市大船の住民がそして、こちらではこの記事を書いた記者本人がみずから号外を配布しているんです。 「号外」を担当した記者の1人金野訓子さんです。 このイベントは1文字違いの地名を縁に感じた鎌倉市大船の住民たちが始めました。

被災地の大船渡市の記事が書かれています。 そして、反対側の右側を見ますと鎌倉市大船の記事が書かれています。

その人たちと6年たってしょうがないことだと思うけどことばの使い方の問題だと思うけど「被災地」とか「被災者」っていう表現のしかたもどうなのかな。 震災当時壁新聞を作り続けた石巻日日新聞の武内宏之さんに伺います。 われわれはそれはないですけど全国の皆さんが忘れないために私たち、被災地からできること。 これまでは、この被災地に全国各地から多くの皆さんに来ていただいて支援そして、自分たちの目で見て自分の耳で聞いて被災地を理解していただいた。

6年前、中学生だった私は東北に思いをはせる今は東京で暮らしていく中で震災の記憶はどんどん忘れかけているけれど伝えられるときに震災のことを地元のことを誰かに伝えていきたいと思う」。 きょうもマークシティ渋谷さんでもいろんな震災についての情報をいただきましたけどネットの情報がいろいろ出る中でも自分で確かめてちゃんと正確な情報を皆さんに発信していけたらなと思ってこちらを書かせていただきました。

東日本大震災は他人事だと思っていましたが準備は絶対です」。 最近、プレミアムフライデーが始まりましたよね。 あの日を忘れないためにプレミアムフライデーに東北の品物と防災グッズを必ず1つ買う。 僕は、いわゆる被災地であるといわれる場所は、過去すごく元気だった時代もあるでしょ。