昭和天皇が敗戦後間もなく 勅語で初めて「平和国家」を掲げたのです。 昭和21年1月 天皇陛下が6年生だった時の書には「平和国家建設」とありました。 平和国家 日本の出発点となった日本国憲法。 そして 冒頭に 「日本国民は正義と秩序を基調とする番組では平和国家の出発点となる重要な資料を堀り起こしました。 昭和天皇の 「平和国家」の勅語にいち早く反応した憲法学者がいました。 「平和国家」の理念は新しい天皇の姿を世界に伝える重要な意味があったと言います。
天皇は 「平和の基礎の上に昭和天皇と側近たちもいち早く憲法改正に向けて動き始めます。 ここに 憲法改正は天皇の意向を受けた近衞と幣原内閣による調査が並行する事になりました。 近衞の死によって 昭和天皇の下で始まった憲法改正の調査は挫折したのです。 憲法改正の調査は幣原首相の下憲法問題調査委員会が担う事になりました。 こうした中 マッカーサー率いるGHQは日本政府に憲法改正を促し注視していました。 幣原の下 憲法改正調査を進めていた委員会でも平和国家の理念を新しい憲法に盛り込もうとする憲法学者がいました。
連合国の日本占領の最高機関として2月下旬に発足しGHQを管理する事になっていました。 更に 「自己の安全を保持するための」戦争戦争放棄の条文を担当したのが…ケーディスは自衛戦争を否定した箇所を削除したといいます。 翌日 GHQは憲法草案を日本側に示し次のように伝えました。 ご覧頂いたようにGHQ草案を基に「帝国憲法改正案」が作られました。 九条の「平和」について提言したのは日本社会党の鈴木義男です。 鈴木義男は国際連合が誕生していく世界を戦後 国会議員となった鈴木は発言しています。