このベトナム戦争ですけれども戦場には 本当に世界各国から ジャーナリスト カメラマンが押し寄せましたけれどもこの戦争取材とか報道という点から見て澤田さんは 5年いましたけど私も 4年いてもっと長い人もいます。
戦場のカメラマンは レンズの異なるカメラを持ち替えて シャッターを切る。 だから ネガフィルムのコマを遡ればなぜ カメラを持ち替えたかが分かる。 当時 アメリカ軍にベトコンと呼ばれた南ベトナム解放戦線の容疑者捜しが始まる。 縦サイズの写真も 報道写真としては採用されにくいが澤田は 常識を無視して縦サイズの写真を撮る。 澤田は ここで レンズを交換したためワンカットを送ったと思われる。 澤田教一は 昭和11年青森市に生まれた。 基地の町 三沢は澤田教一にとって重要な意味を持っている。
フリーのカメラマンとしてサイゴンに乗り込んだ澤田はマジェスティックホテルに陣取った。 UPIの人間でありながらフリーのカメラマンとしてやって来ざるをえなかった澤田はどんな気持ちで支局を眺めていたのか。 テトに祈る婦人を捉えているがアメリカのカメラマンと違って澤田の写真はどこか 東洋の香りがした。 やがて UPIは 澤田をサイゴン支局のスタッフカメラマンとして送り込まざるをえなかった。 世界報道写真展グランプリを受けると給料も上がりその年から サタ夫人もサイゴンで暮らす事になる。
1967年から 狙いの定まった澤田のネガはユエ城内に密集する民家はことごとく破壊され3年半にわたるベトナム戦争従軍に ピリオドを打って澤田は 1968年9月香港支局へ転任した。 ベトナム戦争は 1970年に入って新しい様相を示し内戦は ラオス カンボジアと広がっていった。 澤田は プノンペン支局に詰め激変するカンボジアを取材する。 既に カンボジアの領内ではジャーナリストの行方不明が続発し4人の日本人を含め15人のジャーナリストが安否を気遣われていた。
澤田の写真が 今ホーチミン市 戦争犯罪展に飾られている。 子どもとお母さんの写真があまりにも多いですし子どもたちの目がすごく輝いているので多分 そこでやっぱり カメラマンとしてはコミュニケーション とりますよね。 それを 私 非常に評価するし要するに ベトナム戦争っていうのは民間人が犠牲になった戦争ですからですねそれを 非常に よく表現してると私は思いました。 やっぱり澤田さんの中にはですね攻撃するアメリカ軍に対する反発もあったと思います。