BS1スペシャル「戦火のマエストロ・近衛秀麿~ユダヤ人の命を救った音楽家〜」

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この番組のまとめ

今から70年前第2次世界大戦下のドイツで活動していた日独伊三国同盟を結び戦後はA級戦犯として出頭が命じられていた元首相 近衛文麿の実の弟だ。 今回 発見された近衛秀麿の尋問調書。 秀麿が 初めてドイツに現れたのはこの尋問の およそ20年前1923年の事だった。 秀麿が学生時代を過ごした大正時代初頭日本は クラシック音楽不毛の地といってよかった。 カール・ムックの指揮を見て進むべき道を指揮者と決めた秀麿はベルリンに住まいを定める。 これは 秀麿が当時使っていた携帯用の楽譜だ。

そんな秀麿はドイツから帰国したあとの 1926年ドイツで目にした 一流指揮者たちはただ 楽譜どおりに演奏している訳ではなかったからだ。 秀麿は 当時のヨーロッパの一流指揮者と同じように楽譜に手を加え 楽曲のテーマをより印象深く描き出そうとしたのだ。 東京の近衛家では今 秀麿が残した楽譜を2人は 秀麿が 学生時代に数多くの楽譜を書き写していた事が後の近衛版に つながったのではないかと考えている。 秀麿は 苦労しながらも近衛版の演奏を積み上げその実績を ドイツへ伝え続けた。

留学時代の恩師…彼は ナチスの法律によってベルリン音楽大学の職を失い演奏活動も禁止されていた。 秀麿は 日本への亡命を提案する。 日本の音楽教育のために力を貸してほしいと説得したのだ。 クロイツァーは 1935年日本行きを決行する。 近衛さんのお考えがなかったらクロイツァーは日本に 多分 来ていませんね。 だから 近衛さんがそれを感じてね本当 日本にお誘いになったって事は小澤征爾は彼の指揮を見て指揮者になる決意をしたという。 日本音楽界の発展に大きな貢献を果たした。

戦時下のドイツ・ベルリンで活動した日本人指揮者近衛秀麿。 先生日本に来て頂く事はできないでしょうか?秀麿は ユダヤ系音楽家たちを日本に呼び寄せ彼らの亡命を手助けしていた。 どういう事ですか?秀麿に協力を求めてきた男はハインリッヒ・リーブレヒトというユダヤ系の弁護士だった。 アンドリューさんによれば叔父のハインリッヒは反ナチの地下組織に通じユダヤ人の救援活動を行っていた人物だった。 ハインリッヒは そんな秀麿の存在を必要としていたのだった。 ハインリッヒが 秀麿に依頼した事。

600万人にも上るといわれるあぁ!ハインリッヒだけではない。 一方 来る日も来る日も拷問にさらされ死を覚悟していた ハインリッヒ。 これは 戦後 ハインリッヒの家族が秀麿に送った手紙だ。 ゲッベルスらは音楽によってドイツをナチスの色一色に染め上げようとしたのだ。 例えば?ゲッベルスからは音楽プロパガンダにもっと協力するようにと言われました。 そのころ彼はドイツ軍に徴兵され占領地での慰労音楽会を企画する部署にいた。