そんな三成の前に立ちはだかったのが…天下を統一した秀吉は三成の思いとは裏腹に…秀吉の死後 次々とルールを破り天下取りの野望をあらわにする。 三成の活躍により 秀吉軍は丸2日かかる道のりを僅か 5時間で引き返し柴田軍を打ち破った。 最近 歴女の中でも三成公は すごく人気急上昇中で。 三成公好きの人を「ミツナリスト」と言うんですけども。
例えば 九州の島津を平定して東北の伊達を平定して四国の長宗我部 それから中国地方の毛利という事で全部 平定して全日本 オール日本になってくると大組織になりますのでその大組織を運営していくそういう文官といいますか官僚というかそういう管理部門のヘッドとして三成が 非常に自覚していたし秀吉も それを求めていたと。 秀吉は 晩年三成の働きを高く評価し…だが 三成は断った。 一方の「太閤検地」ではそれまで地域によってバラバラだった升の大きさや長さの単位を統一。
株式会社 豊臣本社で働きたいと。 それから もう一つ 私は 秀吉はこういう問いかけをしながら堺を まとめるっていうのがどれほど大変な事だったかというかやっぱり 流通が生まれて商人が生まれて後々の豊臣家を支えていく土台を形成するためにそこを作ったという事はちょっと 自信もかいま見えるっていうか。 全日本 オール日本を いかに幸せにしていくかっていうそういう スケール感で見られたっていうのは三成と あと家康と… まあ秀吉この三人じゃないかなと思います。
これに対し三成は他の有力大名と手を組み家康を押さえ込もうとした。 更に 西日本の有力大名毛利輝元を 大将に担ぎ上げ三成が大義を訴えたのに対し家康は…一方の三成 家康の動きを食い止めようとする。 基本的に 三成が考えた防御策というのはともかく 徳川家康たちを大坂の方に行かせない。 まず 関ヶ原の戦いの前の段階に石田三成は 大垣城にいます。 ここが大垣城で石田三成の第1の防御地点。
それで 初めて 徳川家康を挟み撃ちにするっていう形で三成はその裏切りを想定していた。 三成が率いる西軍は関が原の西に陣取り南宮山の毛利勢との間で…これ囲まれてる感じですね。 当社の歴史シミュレーションゲームでもこういう布陣で ここで東軍と西軍が戦って関ヶ原に集結。 東軍の背後をつけば…三成は 合図の狼煙を上げた。 三成は 京都の六条河原で首を はねられた。 40年の生涯だった三成好きとして。