奈良市西の京 薬師寺ではおよそ1万人の参拝客の前で1,300年前の白鳳時代そのままに再建された金堂の落慶法要が行われていました。 関係者一同の長年の悲願でしたがこのほど やっと 5年の歳月と22億円の経費をかけて今日 薬師寺の住職であるというそれだけの理由でこの晴れがましい 尊い金堂落慶薬師開眼の舞台に…舞台を与えて頂いたという事本当に 冥加の極みとは天武天皇の時代に始まる薬師寺独自の儀式です。 「日本書紀」には薬師寺建立の由来を建立を始めたものです。
そこで 昭和43年古代建築の専門家による金堂設計委員会がつくられそれに 唯一の白鳳の建造物東塔を資料にして描かれました。 こういう具合にどこまでも この縦線やなしにこっちからの線を主体に棟の線を主体でここ 形を決めとんのが飛鳥でありそれから この塔の方の天平尺になっとる方のはどうも この縦線っていうものからこう曲がって古代建築の専門家によって決められていきます。 白鳳時代の建造物の特徴は軒を深くするために工夫された三手先斗洪と裳階をつけたデザインにあります。
50歳以上の老練の大工に交じって20代 30代の若い大工も規格化した民家建築に飽き足らず木造建築を勉強するため参加してきました。 焼けやすい事を理由に高さ 13メートル以上の純木造建築の許可が下りなかったからです。 人間自身を押し出すんじゃなしに人間自身が この自然の恵みの中に育っていると。 予想されたように積み上げられた木造部分と内陣の鉄筋コンクリートの接合が計算どおりにいかないのです。 後世 修理に当たる大工しか見る機会はない一通肘木の裏に西岡さんは 落書きをしました。
夏のある日西岡さんと弟子の小川君は国宝 薬師寺の東塔に上りました。 両塔があって 金堂があって見事な伽藍を つくるんやからこれは 浄土であるっちゅう考えやと思うな。 奈良時代っていうのはすごかったろうね。 東大寺があって あそこに西大寺があったんだろ?ここら辺にね。 今から考えて とっても大きな文化的な仕事やと思うけれどもその一面ではそれに苦しんでる人もたくさん おったって事や。 昭和43年 薬師寺は写経勧進運動を通じて金堂を再建する事に決定しました。
一文字一文字の中にこもる皆さん方の真心で毎年 お盆の日一人一人の戦友に見立てたコップに冷たい水を注ぎ薬師寺写経勧進本部では田管長の講演会を1年に350回以上も行い多くの人に写経を勧めました。 昭和48年11月8日 薬師寺新金堂の棟上げが行われました。 法隆寺大工 光さんは昭和24年法隆寺金堂の焼失に出会い大きな柱だったのです。 昭和50年11月29日ついに 写経勧進は念願の百万巻を超えました。
でも 写経をしている間に自分の心も癒やされたりいろいろな事を考えたり最後に 祈願の気持ちを書くんですけれども納めて頂いた お写経はこのお薬師様のお膝元にですね薬師寺が1,000年続けば 1,000年2,000年続けば 2,000年お膝元でおまつりをさせて頂きます。 何が鬼かっていうと自分に対して厳しいという意味であってお弟子さんとか 周りの人にはとっても優しい宮大工の棟梁でございました。