卓二さんの祖母いくは仙一の祖父嘉市ときょうだいだという事が分かりました。 「星野玄道は浅野春道の次男で三村玄澄に医学を学び成績は すこぶる優秀だった。 玄道の実の父 浅野春道は尾張名古屋藩に仕える藩医の一人。 玄道は 名古屋で医学を学び饗庭村の星野家の婿養子となりました。 明治30年代 日露戦争の頃には敏子は 僅か2歳でした。 その後 大樫家から正田家の養子になったと戸籍には記されています。 正田家があった岡山県瀬戸内市長船に向かいました。
こちらが正田仙蔵様の除籍簿になります。 30代になった仙蔵は この製作所で働いていた事が分かりました。 小学生の頃仙蔵に会った事があります。 父親の国人さんは航空機製作所で仙蔵の部下でした。 部下のミスを仙蔵は あえて翌日に叱りました。 職場での仙蔵からは想像できない笑顔で娘の美和子さんとお馬さんごっこしている姿でした。 仕事では「天下の仙蔵」と尊敬され仙蔵は 厳しくも 部下や同僚から慕われる男だったのです。 終戦までに仙蔵は4,000人以上の教え子たちを航空機製作の現場に送り出しました。
育ち盛りの仙一に食堂のコックさんがよく料理を作ってくれました。 敏子は ある日 友達と遊んでいる仙一を 仕事帰りに見かけます。 そんな仙一に敏子は なけなしの蓄えから 千円を渡しました。 仙一が野球に打ち込めるようにと敏子は 水島クラブの仕事を続け稼ぎのほとんどを仕送りしました。 大学4年 仙一に プロ野球のスカウトから声がかかります。 仙一が告げると 敏子は反対しました。 仙一の活躍は遠くから テレビで見守りました。 その2日前息子の雄姿を見る事なく母 敏子さんは91歳で 亡くなっていたのです。