特集 明日へ つなげよう 東日本大震災から7年▽宮城編 ▽政府追悼式 ▽岩手編

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この番組のまとめ

宮城で紹介するのは東松島市と名取市の閖上地区です。 いずれも津波で甚大な被害があった地域ですがまずは、名取市の閖上地区。 篠山理由がありまして朝市行きたかったんですけど今回はあえて、閖上の素顔ふだんの閖上を見ようということで朝市ではない閖上に行ってきました。 震災前7000人が暮らしていた閖上地区は新しい住宅地ができようとしていました。 このお宅は、去年4月6年間の仮設暮らしを終え閖上に戻ってきたそうです。 仮設暮らしの間に夫を病気で亡くし去年12月、2人用の公営住宅に一人で引っ越してきました。

寺門平田さんはどういうふうに感じましたか?それは、決して間違ってはなかったと思うんですが結果としてコミュニティーが寸断されて仮設の段階から孤独死をたくさん生んでしまって。 畠山確かに、東日本大震災で仮設でもみんなコミュニティーを守って仮設に入ったんですが、その中で1人抜け、2人抜け、再建されて残った方をもう1つの仮設に集めてしまった。

中村また避難所のときは大勢でいて避難所から出て、仮設へ行くとまた周りの人間が違う人で仮設を出て復興住宅へ行くと別の人がいるという。 伝えるのはNHKのおのくんこと小野文惠アナウンサーとマギー審司さんです。 小野NHKのおのくんといっていいのか小野文惠です。 マギーなんでおのくんっていうんですか?小野後ろを通っている線路が仙石線で、すぐここが陸前小野駅という駅です。 この駅のすぐそばにあった小野駅前仮設住宅。

大阪放送局リポーターの有田早紀です。 大阪のおのくんファンたちが毎月のように集まって、こうしてイベントを開いているんですが今回何をしているかといいますと自分のおのくん、マイおのくんの自慢大会なんです。 有田毎日一緒!おのくん愛であふれていますね。 今年、もう決めてて8月に一緒に行っちゃいます!有田武田さんも見ていらっしゃいます。 東松島の皆さん遠く離れた大阪ですけどおのくんのおかげで日々ハッピーになっちゃってます。 小野有田さんこっちも負けてませんよ。

武田東松島の人たちを少しでも元気づけようと思って最初にやったので、その人たちは全員メンバーが、ずっと最初から一緒なんですけど。 小野この先どうしていきたいですか?武田この先、ここで皆さんがもっと集まれるコミュニティーですか。 平田さん、なぜ、これがここまで受けると思います?平田先ほどの問題とつながっているんですが日本は地縁社会だったんですが被災地にかかわらず地縁社会が厳しくなってるんですね。 僕は関心共同体と呼んでいるんですけどつながっていくんです。

篠山お母さんたちがおのくんとつながって楽しく話しているようなそういう場とか、そういうものが東松島以外のところでももっとおのくん的なものとか仕掛けがもっともっと、ないと本当にこれから新しい町でコンクリートの中で孤立していっちゃう人が増えていっちゃうと思うので。 去年7月九州北部を襲った豪雨で山間部を中心に大きな被害がありました。 五十嵐珠美さんです。 そうした中孤立した五十嵐さんに向けて励ましのメッセージを次々と寄せてくれたのが全国のおのくんの親たちでした。 仮設住宅で必要になりそうなものをリストアップ。

畠山震災の被災地だけじゃなくて皆さんからツイートやメールをいただいています。 畠山今日は、被災地の外からどうつながるかをアーティストの立場から考え続けた人ともつながっているんです。 竹山仙台放送局1階の公開スペースです。 小林さん、音楽を通して被災地を応援する活動を続けていらっしゃいます。 寺門被災者の方たち自身の力を引き出すような息の長い支援として小林さんが立ち上げたのがリボーンアート・フェスティバル。

小林地域はもちろんそうなんだけど被災地というのはネガティブといったらあれですが大きなものを失ったところだと思うんですけどだからこそ都市で生きている人間僕もそうですけど気づかないような生き物としての本質みたいなことと出会うということがすごく、あるときにだから、いろんな化学反応が起こっていったという都市にできないことというような気がするんですよ。

震災直後は犠牲になった肉親の方を思うことを書かれる方が多いんですがこの7年、亡き人への思いがどう変わってきたかということで津波で中心市街地のほとんどが流され一緒に働いていた先代の父親を津波で亡くしました。 スケッチブックに親への思いをつづったもう1人の方を訪ねるため次に向かったのは埼玉県加須市です。 今、心の支えになっているのが埼玉県加須市で避難生活を送る双葉町民の交流会です。

震災直後、生活再建に一生懸命だったころよりもむしろ生活が一段落した今のほうが悲しみをかみ締める時間が増えたという方々は私たちが取材していてもたくさんいらっしゃいますね。 そういうのは、震災直後よりも今頃になって初めて悲しみとかそういうのをちゃんと受け止めてそして、遺族の分まで自分も頑張って生きていこうという人が増えている気がします。 そういった方々も含めると東日本大震災は2万2000人の方が死者・行方不明者になっている。

続きまして14時46分の時報に合わせて東日本大震災によって犠牲となられた方々に黙とうをささげます。 まもなく震災で犠牲となった方々にここに東日本大震災により犠牲となられた方々に対し黙とうを終わります。 本日ここに秋篠宮同妃両殿下のご臨席を仰ぎ東日本大震災七周年追悼式を挙行するにあたり政府を代表して謹んで追悼の言葉を申し上げます。 かけがえのない多くの命が失われ東北地方を中心に未曽有の被害をもたらした東日本大震災の発生から7年の歳月が流れました。

大震災からの7年間被災地において人々は幾多の困難を乗り越え手を携えて復興に向けての努力をたゆみなく続けてきました。 その結果、住宅の再建や高台移転産業の回復、生活環境の整備防災施設の整備など多くの進展がみられました。 とりわけ帰宅可能な地域が広がる中いまだに、みずからの家に帰還する見通しが立っていない人々も多いこと基準に照らして、放射線量の問題がない場合であっても農林水産業などに影響が残っていることを思うと心が痛みます。

小野再び宮城県東松島市です。 これまで佑哉くんの遺品に触れることさえなかった美貴子さんがおのくんを作ることを決意したきっかけ。 美貴子さんのお願いで佑哉くんの名前も刺しゅうしてもらいました。 美貴子近くのほうがいいよ。 畠山こちらのモニターに映し出されている数字これは東日本大震災から何日がたったかを示しています。 ここは仙台放送局の一角にあります震災の記憶を未来につないでいく展示コーナーです。 こちらのコーナーはゴーグルとタブレットを使って福島県双葉町の様子を見ることができるんです。

遺族を代表して岩手県の磯崎一元さんそれでは岩手県のご遺族を代表して磯崎一元様、お願いいたします。 平成30年3月11日岩手県代表・磯崎一元。 震災は、私の人生でとてつもない試練でしたが元気で頑張ることがお返しと思い僕は、毎年バスや列車などの公共交通機関に乗って東日本大震災の被災地を訪ねる旅をしているんですけど今年は、岩手県の久慈から宮城、そして福島県の富岡町まで旅をしてきました。 岩手県は久慈市から三陸鉄道に乗って宮古市田老地区。

宮古市田老地区は7年前の津波で1700戸の建物が被災し181人が犠牲になりました。 大船渡の昆布や陸前高田のゆずなど被災地の特産品を使い互いに助け合おうと考えています。 新しい災害公営住宅に引っ越していった方の取材をしているとコミュニティーの問題とかやっと住居が災害公営住宅ができて住む場所はできるけど町って実は家だけじゃなくてスーパーだったり食堂だったり、郵便局とかいろんなものができてやっと皆さんの心と心がつながるんですよね。

千葉今日私たちがいる場所かつての山田町の中心部でした。 今回、私たちがAR=拡張現実を使ってよみがえらせるもの町の中央にありました陸中山田駅です。 千葉鉄道の利用者はもちろんなんですが待ち合わせ場所に使ったり井戸端会議をしたりと町の大切な場所だったんです。 しかし、7年前の大震災で山田町では死者・行方不明者合わせて825人の方が犠牲となり大きな被害を受けました。 千葉世界初の映像体験に。

中学卒業後東京で働いていたあき子さんが帰省した時の写真です。 人々の記憶の断片をまとめCGで再現するのは筑波大学村上暁信教授の研究室です。 山田線にまつわる資料を集めている、岩城徹雄さん72歳。 JR山田線の元運転士です。 陸中山田駅は上野行きの夜行列車や急行も停車する重要な駅でした。 記憶のひとつひとつが再現プロジェクトの原動力となっていきました。 7年前宮古の高校に通う娘を毎朝駅まで、車で送り届けていた、福士厚子さんです。

そして今日は埼玉県からこのプロジェクトを聞きつけてお越しになった方もいらっしゃるんです。 写真もこのプロジェクトに送っていただいたということで在りし日の陸中山田駅の映像を見ていかがですか?震災後、何回か来ているんですけどその前の写真があったので。 畠山今、この映像を見ながら中村雅俊さんがタイムマシンに乗って戻ったみたいだとおっしゃってました。 ほかの被災地でやってほしいですねこの再現プロジェクト。

高校時代、汽車通学だったので42~43年前ですから懐かしいですよ。 千葉そして、この先には列車が到着する陸中山田駅朝7時20分発、宮古行き。 多くの若者たちがこの列車に乗って宮古の高校に通っていました。 列車は、高校生達でいつも満員。 山田町で牛乳配達店を営む三田地智之さんです。 7時20分発の列車は三田地さんにとってほろ苦い思い出の舞台です。 かき養殖漁師の佐々木友彦さんです。 25年前、高校を卒業した佐々木さんは、東京で漁業の勉強をしようと決意します。

手嶌そしてこのプロジェクトを中心になって進めてきました山田町のさわださんです。 今、ゴーグルをつけて体験してくださっている方もこのパブリックビューイングの会場の皆さんもすごい歓声を上げて見てくださっていますね。 ぜひこういうのを山田町のことを昔から知ってる人たちだけじゃなくて今、ここに来てもらっている小学生とか山田町のこれからを担っていく人とか山田町のことを今まで知らなかった人たちと共有できることできっと山田町の復興ももう一歩前に進むんじゃないかと思いました。

足立私自身は何をすればいいのかこの7年たった今何をすればいいのか分からなかったんですけど実際今日、福島県富岡町に行って「あまちゃん」見てたよとかたくさんの方に声をかけていただいたんですね。 足立各地域に行ったとき募金活動を人口が流出したり戻ってくる人が全く少ないという、ああいうのは予定外のことだったと思うんですね。 だから、チラッと思ったのは2020年のオリンピックあるじゃないですか。 オリンピックまでには仮設にいる人を全くゼロにしてオリンピックの試合を時だけは、これからもたっていくじゃないですか。

それから、忘れていないよというメッセージを常に私たち、全国の人間が東北を忘れてないといつも思っているよというのを何かちょっとでもいいので届けるということが一番大事だと今日改めて感じました。 たまたま俺なんかは歌を歌えたり、人の言うことを聞いてあげられるので小さい力ですけど歌を歌ったりさっき小林武史さんがピアノを弾いて歌を聴いたときにあれこそ音楽の力って畠山先ほど足立さんがおっしゃった「あまちゃん」見てますよと言われたことでつながっていることが分かったと。 篠山足立さん、まず久慈駅に行ったらいいです。