佐田家の 最も古い戸籍によると曽祖父 佐田米太の本籍地は…現在の…500人ほどが暮らす棚田が広がる地域です。 新疆 現在の中国新疆ウイグル自治区の大正時代の情勢についてまとめられたものです。 ウラジオストクには 総勢7万もの兵士を送り込みました。 翌年 繁治もウラジオストクに向かいます。 この時 繁治が名乗った身分が新聞社「萬朝報」の通信員。 佐田繁治との運命の出会いでした。 ウラジオストクで 佐田繁治と出会うまでの歳月が明らかになります。 エムは ウラジオストクでロシア人家庭の家政婦として働き始めます。
一人になったエムは夫の残した金を元手にペキンスカヤ通りに日本料理屋 「松鶴楼」を開きます。 そんな事が…!ロシア革命当時ロシアで暮らしていた日本人が政府に提出した書類です。 店があったのはペキンスカヤ街十三号現在のフォーキナー通りです。 シベリア出兵が終わり日本軍が撤退したため民間の日本人たちも引き揚げる事になったのです。 エムと雅人がチチハルに到着したころ親戚一同が集まって撮った写真です。 独立歩兵第51大隊第4中隊に配属され上海の北 江蘇省塩城の警備に就きました。
蒋介石率いる国民党軍が雅人を中尉として迎えたいというのです。 そのころ 満州 チチハルでは母 エムが雅人の帰りを待っていました。 雅人は エムが必ず この港に立ち寄ると信じ連絡船が出る度に乗船者を確認していたのです。 相手は 日本に帰るよう雅人を説得した上官お前 ばかか お前は!もうねえ!今から170年前の 嘉永元年。 まさしの曽祖父 岡本安太郎は現在の雲仙市 千々石で生まれました。 安太郎は荷主たちに掛け合いそんな安太郎の後継者として期待されていたのが長男 為吉でした。
喜代子も 保険の外交員の仕事を始め 家計を助けます。 喜代子が 生前 出版社のインタビューを受けた時の音源が残されていました。 バイオリンの練習に明け暮れる中雅志の楽しみは祖母 エムの話を聞く事でした。 喜代子は亡くなるまで この手紙を大切に保管していました。 バイオリニストになるには専門的な音楽教育を受ける事が絶対条件でした。 その時母 喜代子は黙って雅志を迎え入れます。 ある日 「いい曲ができた」と言って喜代子に聞かせた歌があります。