今から145年前の明治6年に生まれた次男が…陸軍時代の繁治に関する手がかりが見つかりました。 で 佐田繁治です。 明治32年 繁治は 台湾 台中県で巡査の仕事に就きます。 しかし戦前の三井物産の人事記録に繁治の名前は ありませんでした。 え~ ここにですね 佐田繁治。 繁治が新疆に向かった年ロシア革命の混乱に乗じて日本は シベリアに出兵します。 翌年 繁治もウラジオストクに向かいます。 この時 繁治が名乗った身分が新聞社「萬朝報」の通信員。 女主人は とっさに 繁治を隣の部屋に かくまいました。
ロシア革命当時ロシアで暮らしていた日本人が政府に提出した書類です。 シベリア出兵が終わり日本軍が撤退したため民間の日本人たちも引き揚げる事になったのです。 その泊居小学校の後輩が見つかりました。 そして雅人が小学校を卒業したころ満州で暮らす親戚から突然 エムに手紙が届きます。 エムと雅人がチチハルに到着したころ親戚一同が集まって撮った写真です。 「猪口時計店」は親戚の一人が経営していました。 あこれだ! 猪口時計店。 猪口時計店の娘…エムに子守をしてもらいました。
まさしの曽祖父 岡本安太郎は現在の雲仙市 千々石で生まれました。 明治10年 安太郎は 29歳で多くの沖仲仕を束ねて「岡本組」を立ち上げます。 長崎港の沖仲仕について書かれた…安太郎は荷主たちに掛け合い沖仲仕の賃金を上げ安定した生活ができるよう力を注ぎました。 そんな安太郎の後継者として期待されていたのが長男 為吉でした。 為吉は 父 安太郎にヨネと結婚したいと申し出ます。 その死を悼む人々が長崎の大音寺に安太郎の功績をたたえる石碑を建てました。