そんな正章さんの父・堺駿二さんは戦後250本以上の映画に出演した人気の喜劇役者でした。 寅さんでおなじみの渥美清など共にその名が刻まれている人物こそ昭和を代表する喜劇役者 堺駿二。 正至が育った栗原家はどんな暮らしだったのか?鏡味さんが見せてくれた一枚の家族写真。 人気を集めた浪曲師 小柳丸が大正11年に 父・重吉のために盛大な葬儀を出したと伝える新聞記事が見つかりました。 大正11年 桶屋を営んでいた父・重吉が亡くなった時正章さんの父・正至は9歳でした。
正至は 伊村義雄一座に加わった11歳の頃を振り返ってこう語っています。 ここに正至が役者になってすぐの大正13年から昭和2年までの伊村義雄一座の公演パンフレットが保存されていました。 アメリカ映画界で東洋の貴公子として一世を風靡し浪曲師 東家楽燕にすがりつき昭和7年弟子は取らないという雪洲のところに100日間 通い詰めようやく一座に加わることが許されます。 正章さんの姉・藤倉由紀子さんは昭和20年3月の東京大空襲の日に日本橋小網町の 母の実家にいました。 昭和7年 千代子が入ったのは松竹少女歌劇団でした。
駿二は シミキンとの共演によって喜劇役者としての才能に磨きをかけます。 シミキンと駿二のコンビは浅草ツッコミコントの原点だと言われています。 駿二は ボケというより困った状態をリアルに表現しシミキンの行動に 駿二は戸惑います。 昭和17年 駿二は いま一度役者として生きていくことを決意します。 日本の近現代演劇を研究する早稲田大学 演劇博物館…舞台が終わったあとシミキンは 警察官にやりこめられます。 駿二が横須賀海兵団で担当したのは炊事係でした。