ごごナマ おしゃべり日和「宝田明」

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この番組のまとめ

降下の開始が予定より遅れていた日本の探査機はやぶさ2についてアメリカの中央銀行にあたるFRB・連邦準備制度理事会は先月の会合の議事録を公表し、大半の参加者が手持ちの国債などを減らして金融を引き締めていく政策は、ことし後半に終了するのが適切だと見ていることが分かり、景気に配慮していく姿勢を鮮明にしました。

阿部今日のお客様宝田さんへのご質問、メッセージどしどしお寄せください。 そのお仕事の関係で12歳まで旧満州現在の中国東北地方で過ごしました。 宝田東宝では森繁さんは旧満州の放送局から帰ってきた方で三船さんは、ちんとうご出身で写真屋さんのご子息で。 僕は大変ラッキーにも昭和29年に「ゴジラ」で出ましてから31年、32年とずっと10本以上の、あの当時映画の本数も多かったですけどそのぐらい撮っていましたね。

疑心暗鬼に陥る戦国時代の武人の末路を描いた世界のクロサワ監督の名作としてもご存じだと思います。 宝田この日の朝、撮影所のメーキャップルームに入ってきたときに三船さんの顔は真っ青でした。 しかし悲しいかな、黒澤さんと三船敏郎さんのコンビは「蜘蛛巣城」が最後で2つの才能というかそれぞれの道を歩くんですがこれは名作の中でも名作でしたね。 宝田三船さんは東の正横綱私が東の張り出し横綱という感じで西の横綱は勝新でそれから、あとは張り出し横綱は私と日活の新人の裕次郎でした。

その作品が成瀬巳喜男監督がメガホンをとりました同人雑誌で売れてそれでお給金が入った。 20秒、宝田君、違うよって監督が言うものですから僕は調子いいほうで分かりました!もう1回やってくださいって大体4~5回はキャメラテストとかマイクのテストのためにおつきあいするじゃないですか。 そのうちに宝田君、違うよと言われてああ、そうですかっていううちにあっという間に何十回かやっているうちにお昼のサイレンが鳴って一時休み。

いかがでした?宝田1本目は福沢諭吉の映画で私は、下級武士の1人。 9年後の昭和29年にまた冷戦行動の中で米ソの原水爆の実験があってそれから数時間して白いメリケン粉みたいなものが船越この音が鳴りましたので船越のクエスチョン5…ではなく、今日はたまにやるこちらの企画にまいりたいと思います。 船越の白黒つけまSHOW!宝田家内は私と実は10も離れておりましてそれでとても相手の気持ちを察するそういうタイプのあれで自分より相手の気持ちを重視しているそんな女性ですね。

阿部優雅な空間で過ごすサラちゃんとの時間が宝田さんの癒やしになっているようです。 宝田違った個が2つ集まって夫婦をという形を成すわけですからものの考え方、見方いろいろ生きざまが違うのは当然ですけれども多少のいさかいはありますよ日々、大小ね。 宝田何十年前の話だろう…。 宝田さんといえばミュージカルが欠かせませんよね。 阿部ブロードウェイミュージカルです。 日本で初めて上演されたブロードウェイミュージカル。

宝田映画長くやっておりまして一番最初のきっかけは「アニーよ銃をとれ」で江利チエミと一緒だったんですが映画を撮っているときにチエミがお兄ちゃん、そのうちにミュージカルの時代がくるからお兄ちゃん、歌うんだしぜひ一緒に出ましょうよって熱いラブコールをいつももらってましてそれがやっと実現できたのが「アニーよ銃をとれ」でして。 そして、今年の夏には宝田さんご出演のミュージカルコメディー映画「ダンスウィズミー」が公開されます。

宝田皮のついたたまねぎをこれを食べたらあなたは、りんごみたいに甘く感じますよって僕が催眠術をかけるところがあるんですよ。 ミュージカルコメディー映画「ダンスウィズミー」この夏公開です。 旧満州、現在の中国東北地方で多感な少年時代、大変な時代を過ごされました。 この地で終戦を迎えて激動の時代を体験した宝田さん。 阿部戦争を体験した自身の半生を朗読と歌で伝える「宝田明物語」では宝田さんご自身の壮絶な経験が語られます。 船越宝田さんご自身も何度も命の危険にさらされたそうですよね。