天皇陛下の退位までも8時間を切ったということになります。 天皇陛下は、まもなく退位礼正殿の儀に臨み、国民への最後のおことばを述べられます。 この時間は退位の儀式の中継を中心に皇居の動きですとか平成最後の日の各地のもようをお伝えしてまいります。 午前10時過ぎ、宮中三殿の回廊に姿を見せられた天皇陛下。 天皇陛下は平安時代から儀式での天皇の装束とされる黄櫨染御袍に身を包み、厳粛な面持ちで臨み、同じように拝礼して御告文を読み上げられたということです。
次は憲政史上初めてとなるこの天皇陛下の退位の儀式、退位礼正殿の儀を前にしまして政府は先ほど閣議を開いて定めるところにより本日限りでご退位される。 閣議では憲政史上初めてとなる天皇陛下の退位の儀式、退位礼正殿の儀で天皇陛下が述べられる国民への最後のおことばと、そして安倍総理大臣が述べる天皇陛下のこれまでのご公務に対する感謝の気持ちを込めたものになりそうです。 また閣議のあとの閣僚懇談会で安倍総理大臣、天皇陛下は本日限りでご退位される。
平成の時代は戦争はなかったとはいえ、災害の時代でもあったかと思うので災害の場所にも被災地にも訪問されていたし被災者の方にも時にひざをつかれてまで接することをされていた、積極的にご公務に全力で向き合ってきたからこそ今回の友人たちと特別語るということはないにしてもくださった陛下だとすごく思っています。 保阪さんは今回、憲政史上初めて天皇陛下がみずからの意志で退位するということになりますよね。
天皇陛下は憲法に自分の年齢と象徴としての務めの重さを熟慮したうえでの行動で高齢化の進む日本社会における象徴の当事者自身による問題提起だったと思います。 そうした天皇陛下の思いに多くの国民が驚く一方で共感を寄せ、退位が実現することになりました。 負担軽減を拒むお姿や天皇陛下の公務に定年制が必要だとするかつての秋篠宮さまの発言など皇室の言動の大本にあるものがあらわれてパズルでいう最後のピースが見送っていましたね。
宮内庁が、官邸の一部に相談を持ちかけて本格的に天皇陛下が制度に反して公に意向を表すことは憲法との兼ね合いからして困難を伴います。 そうした折、天皇陛下の気持ちが知れ渡り多くの人が、賛同の声をあげる中でおことばの文面も退位の意向がよりにじみ出たものになったと聞いています。 そして所さん、皇室にまつわる儀式を研究していらっしゃいますが今回の退位の儀式、歴史的には江戸時代末期の光格天皇以来、200年ぶりとご譲位をなさった方が光格天皇まで60年近くござい譲位になられるわけです。
私の後ろには、およそ10分間行われ、安倍総理大臣が国民の代表として天皇陛下への感謝などを述べたあと天皇陛下が国民への最後のおことばを述べられることになっています。 退位礼正殿の儀への参列を前に宮内庁の山本信一郎長官は両陛下のこれまでの長い道のりを振り返りながら敬意と感謝の気持ちで式に臨みたいなどと話していました。 14年前、天皇陛下は皇后さまとともに太平洋戦争の激戦地、サイパンを訪問されました。 松本さんは、天皇陛下の訪問によって改めて戦争の傷の深さに気付かされたといいます。
私たちがかなり風化している状態なのに、陛下自身は、いろんなところへ行っていく戦争意外に、知られていないにせよ、例えば長野県の開拓団の記念館とか行く先々で戦争の傷痕というものに対して追悼と慰霊を繰り返している、それは陛下自身の記憶の中に戦争というものをきちんと自分の代では、清算していくといいますか、追悼と慰霊という形で、戦争でお亡くなりになった人たち、いろんな国の人たちを戦争の犠牲者に対する議論は慰霊という広い視点をお持ちになったんだなと思います。
そして、天皇陛下が、国民への最後のおことばを述べられること天皇陛下の側近の侍従が、三種の神器のうち、剣とまが玉を、顔の辺り、高い位置に掲げています。 そのような時、天皇陛下は、皇后陛下と御一緒に、国民に寄り添い、被災者の身近で励まされ、いかなる時も国民と苦楽を共にされた天皇陛下の御心に思いを致し、深い敬愛と感謝の念を今一度新たにする次第であります。
天皇陛下が参与らとの集まりの席で初めて退位の意向を表したときには、80歳までは務めるという趣旨の発言をされたといいます。 1月に昭和天皇が亡くなって30年の式年祭が予定され、天皇陛下は、みずから執り行いたいという気持ちを持たれていたようです。 一方で皇后さまは、高齢の天皇陛下を思いやり、平成31年の1年前、つまり去年の年度がわりのころの退位も念頭に置かれていたようでした。 常に天皇陛下をおそばで支え、一番の理解者でもあった皇后さまは、天皇陛下の老いを誰よりも肌で感じられていたはずです。
きょうはテレビを見ていましたが、テレビを見ていて、ここに来たいと、居ても立ってもいられなかったということで、こちらに来て、そして情報ですけれども、皇太子ご夫妻の長女の愛子さまが、報道陣が集まる中で、午後5時16分ごろ、車で半蔵門から皇居に入られました。
お話しさせていただいたときもそうですし、あとね、世の中とかで日が当たらない所の方に対する目線というのを非常に大事にしてらっしゃる方ですので、例えば浜松だと、日系ブラジル人の方が多いことをあれされてて、やっぱり何%いるのかとかいう話を私がすると、補聴器をやっぱりもう一回付け替えたり、皇后陛下が、そうすると、がどのような存在であるかということをお話しになってますね。 天皇陛下は、皇后さまという窓を通じて、社会や人々の気持ちへの理解を深め、象徴としての務めを果たされてきました。
両陛下は被災地に心を寄せ続けられました。 東日本大震災の被災地、岩手県大槌町から中継でお伝えします。 天皇皇后両陛下が宿泊されたことがあります。 私どもが、うちの兄が、平成9年の海づくり大会のときに、両陛下がお泊まりになりまして、はまぎくの種を皇居にお贈りしまして、この1000年に1度の東日本大震災、津波に皇后さまの喜寿の誕生日のときに、はまぎくの花が皇居で咲いているのを初めて知って、その花言葉が逆境に立ち向かうということで。
天皇皇后両陛下がいかに心を寄せられ続けてきたかが伝わって皇太子さまはバイニング夫人から、1学期最後の英語の授業を受けられました。 バイニングさんは、交流の様子を家族に宛てた手紙に記していましさらに交流の様子をアメリカでも紹介していました。 バイニングさんが最後に天皇陛下に会ったのは、昭和62年10月。 バイニングさんの記録からは、その後も家庭教師のころの思いのままに、生涯にわたって天皇陛下を気にかけていた様子がうかがえます。