わ~!更に 志布志町志布志。 更に更に 「志布志市志布志町志布志」。 平成18年 そのころは曽於郡志布志町志布志で有明町 松山町と新しい市を作ることになりました。 そのお名前を志布志市としたため更に「志」が増えたんです。 愛着があるんですよね志布志ってね。 志布志の人々が誇るあふれる「志」の文字。 とにかく 志が大好きな志布志なのでした。 というのも この本庁の機能を支所に移転するために志布志本庁 兼 志布志支所。 移転が完全に終わってしまうとこれが取れてただの志布志市役所になってしまう。
新田開発したことによって助兵衛新田という地名になったそうです。 はあ~!1600年ごろ 鈴木助兵衛さんが荒れ地を開拓し田畑を作ったことで 助兵衛新田という地名になったとのこと。 つまり もともと人名でしかなかった助兵衛は江戸時代に色好みという意味が加わり明治以降その意味だけが残ったのです。 助兵衛新田が 桃里に変更されたのもちょうど そのころ 明治41年のこと。 鈴木助兵衛さんは名前が残るだけあってすごい人だったと専門家は言います。 でも なぜ鈴木新田ではなく助兵衛新田なのでしょうか。
最初のデザインが「女化産」って書いたもんですから…普通になっちゃった。 何でしょう?よくある…当て漢字で 途中から女性が化けるになったんじゃないか。 ですから 女化という言葉は女が化け物になったとかいうような意味ではなくてということは 女化は女の化け物ではなく何かが美しい女性に変わったということ?そのきつねの伝説を宮司の青木さんに聞いてみると…。 そう 伊香立途中町という立派な地名なんです。 普通のトンネルなんですけども名前をよく見ると「途中トンネル」。
川と比叡山との途中にある場所なので途中と言いだしたというふうにいわれています。 相応和尚は比叡山から30キロ離れた川で不動明王と出会うという神秘的な体験をします。 その途中 真ん中辺りの地で休憩した相応和尚のひと言が地名の由来となりました。 何 今の! えっ!?この行事に参加するお坊さんは比叡山から来ますが今でも その途中にある途中で必ず休憩することになっています。 途中の宮垣家は相応和尚の時代からいや~ 思った以上に…!中間になったんだけど…。