ファミリーヒストリー「三宅裕司~先祖の古墳か? 父は映像に思いをこめた〜」

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この番組のまとめ

え~… 平成2年が大水害がありましてそのあと…三宅九平治さんですね。 こちらに三宅九平治さんのお名前があります。 もともと三宅家は農業を主とし醤油醸造 米穀商を営んでいました。 三宅裕司さんとご親戚にあたるっていうのは裕司の曽祖父・九平治も家業の米穀商を継ぎました。 三宅家は 岡山県の この土師に600年 あるいは もっと前から暮らす有力な一族だったと考えられます。 明治13年九平治の長男として生まれたのがこちらが歴代校長先生のアルバムになっています。

祖父・九平治と共に岡山市に移り住んだ肇は昭和3年 地元の名門第二岡山中学校に入学します。 これは 母方 佐野家の家族写真。 裕司を抱いているのが 祖父の敬司。 敬司の本籍は新潟県中頸城郡岡田村でした。 文政6年 江戸後期の地図にやはり 「庄屋」として6代前の先祖源太夫の名前がありました。 上越市立歴史博物館の 花岡公貴さんにその文書を見てもらいました。 裕司の祖父敬司でした。 敬司は 勉強が好きで成績優秀な少年に成長します。 敬司たちは全国の文房具店を代理店にし更に台湾や朝鮮にまで販路を広げます。

女学校を卒業して間もなく美智は ある男性と出会います。 鉄道技術研究所で働く4歳上の 三宅 肇でした。 口数が少なかった肇は美智たちが楽しむ様子を黙々と撮影しました。 ねっ!昭和16年 結婚した肇と美智は現在の東京・北区 西ヶ原で暮らし始めます。 裕司の兄・敬二さんのもとに美智の書いた手記が残されていました。 肇と美智は亡くなった二人の分まで敬二と裕司をかわいがります。 これは 父・肇が撮影した8ミリフィルムの映像です。 昭和32年 肇の職場 鉄道技術研究所ではある計画が持ち上がっていました。

中学時代の親友…高校・大学では落語研究会に入った裕司。 明治大学時代 裕司が落語を披露する音声が残っています。 卒業後 裕司は 多摩ニュータウンで実験的に始まったケーブルテレビで俳優の…当時 たまたま客席で裕司の舞台を見ていました。 ダッキュウ ダッキュウ ダッキュウ!ばかやろう!昭和59年 宮本さんは番組のパーソナリティーに裕司を抜擢します。 「三宅裕司のヤングパラダイス」!コントのようなトークが受け裕司の人気に 火がつきます。