会場の手配から裏方の仕事まで女優自らが手分けし やり通してきたこの舞台。 お母さん役で おなじみの高田敏江さん。 鵜飼さん 車で いらっしゃるんで舞台関係のごみは 鵜飼さんに持ってって頂きたいんです。 そいで 楽屋関係は すいません美佐子さん。 芸能一家に生まれた寺田路恵さんは文学座を中心に数々の舞台に立ってきました。 連続テレビ小説で 鮮烈にデビューした山口果林さん。 「いとし百六十名かくして七日以内みなこときれた」。 「夏の会」結成時渡辺美佐子さんが声をかけました。
戦争だけは絶対にしてはいけないということ それと命の大切さ渡辺美佐子さんは12歳の時に終戦を迎えました。 昭和15年生まれの大橋芳枝さんには真っ裸でころんと転がってるのを よけながら今年は 10人の女優が 代わる代わる朗読していくことになります。 「家の横の角を曲がり小学校の正門の前を通り抜けると「そして八時十五分。 舞台で朗読される言葉の多くは広島で被爆した子どもたちのものです。 建物疎開という勤労奉仕のために駆り出されていたのです。 建物疎開してた場所ですよね…。
わが工場のいとし百六十名かくして七日以内みなこときれた。 当時は 別の演劇グループが主催し朗読の内容は 原爆で子どもを亡くした母親の手記が中心でした。 あれは 最初は美佐子さんのうちにその本を集めて自分の持ってるものとかも全部。 この朗読劇の演出を託された城田美樹さん。 弦楽四重奏って 一応非常に表現力がありますから。
貴重品は 当番の女優が集め裏方役の人に預けます。 「通りがかりの兵隊から日本降伏のことを聞きました。 父親が新聞記者だった影響で子どもの頃から読書家だったという日色さん。 二十歳の頃 劇団民藝に参加することに。 きっかけは 安保闘争のデモに参加した宇野重吉さんたちを目にしたことでした。 その執念だけにひかされ焔の街をつっ走って来た両足うらの腐肉に湧きはじめた蛆をきみ悪がる気力もないまま仮収容所のくら闇でだまって死んだ母さん。 でも この朗読劇には特別な思いがあります。
♪~」公演当日 リハーサルを前に全員でラジオ体操で体をほぐします。 燃料不足が深刻だった日本ではそれを 飛行機燃料にするという無謀な計画が立てられていました。 ヒロシマの壕からひそかに掘り出されせいいっぱい みがかれ土産物屋に並んで水兵ディックに買われていった わたし」。 この日 広島に巡業メンバーから 一人離れた渡辺美佐子さんの姿がありました。 原爆朗読劇にかけた女優たち。 長男だった龍男くんは日本の学校に通うため家族と離れ 一人 東京の寄宿舎に預けられました。
渡辺さんがね 「寂しそうにしてらした」って おっしゃってたからちょっと やっぱり それ聞いて…やっぱり日本に両親離れていたのでね少し寂しかったんだろうなって。 その次に多かった言葉は「天皇陛下万歳」なんです。 その2つを並列してね 叫びながら死んでった子のことを思うのは今年 渡辺さんにとって思いもかけない出会いがありました。 渡辺さんは 初めて 龍男くんの写真を舞台に映してもらうことにしたのです。
全然大丈夫。 広島のなぎさ中学校・高等学校にも台本が届いていました。 この学校では 「夏の会」の朗読劇を朗読指導を受け持つ池田 舞さん。 「ピカドンのときはぼくは小さかった。 「ピカドンのときは」ってピカドンって どんなものか何となくは知ってるよね?今だと 多分 雷くらい。 まあ 実際に ほんとにこの言葉を言って死んでいった子たちの言葉だったり生き残った子が書いてた言葉だったりっていう言葉 一言一句が ものすごい大事なの。 「ぼくはそれを見ると もうピカドンがなければよいとおもう」。
すごい単刀直入なんですけど…だから… 私 実はここで こういう事を伺っていいかどうか分からないんですけど広島の皆さんは 例えば「3.11」なんていうものを考えたことありますか?知っていますか?「3.11」って第3の原爆だとまで国が… 日本が 日本に落とした原爆だってまで 言われていますよね。 長年 女優たちと共に「夏の雲は忘れない」の公演をしてきた学校があります。 平和教育が形だけで終わっているのではと不安を抱いてた 道上先生。 松山公演で 朗読劇に参加したのは専門学校の声優・タレント科の学生たち。