極上のはなし~演芸図鑑スペシャル対談集〜

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この番組のまとめ

毎週日曜日 よりどりみどりの笑いをお届けしている「演芸図鑑」。 猿之助さんの名前継いだわけじゃないですか。 これはね うちの澤瀉屋の伝統で猿之助という名前は この演劇界から一日も消えたことがない。 まあ でも やっぱり亀治郎いう名前に…。 僕も その NHKで初めて 「大河ドラマ」出さして…「風林火山」で武田信玄をやらして頂いて映像で全国区になった名前が亀治郎だったんですよ。

いろいろ披露目があると思うんですけどそれ終わって… 東京で終わってまたいろんな地方へ行くと思うんですけど是非 師匠とかに…。 大先輩が 「もちろん もちろん」って言ってる時に 大変失礼しました。 裕次郎さんと小林さんとの共演が多かったんですけど2人は 何が どう… 比べてみるとどう違ったんですかね?一回 吹き替えですごい その吹き替えの人が大変な大けがをなさったらしいんですね。 ふだん ここにいらしてもふだん こう しゃべってても石原… もちろん裕次郎さんでしょ。

やっぱり その じゃ 歌舞伎ってどうやって培ってくのかっていったらやっぱり 古典的なものでやっぱ そこがないうちから新しいものにいっちゃうとテレビだ ほかの舞台だっていくらもなさってますけどやっぱり 歌舞伎に戻ってらっしゃって古典 出られるとう~ん うまいなあと思いますしね。 これはね うちのおやじ…まあ 米朝のおかげだと思うのがねあの 米朝一門はみんな かばん持ちの頃からつまり 内弟子の頃からお茶屋に上げてもらえるんですよ。

そりゃあ 今な ああいう七代目正蔵っていう人のそこで正蔵師匠は…。 兵庫県は武庫之荘にやってまいりました。 ご無沙汰してます 今日はすいません。 「上方落語中興の祖」といわれています。 演芸会初の文化勲章も受章されました。 昭和18年の時に… つまり…もちろん 落語も歌舞伎も聞いて…わあ ほんとだ!師匠 結構 たばこお吸いになられてましたもんね。 米朝師匠の歴史が詰まった資料の数々です。 米朝師匠が足しげく通った このお店。 カウンターの一番奥の席が師匠の指定席だったそう。

明石のタイを食べたあとにこのマグロのブツをね食べると…米朝師匠の落語が江戸っぽいっていうのはそういうことか。 円楽のお兄さんが 全国各地でいろんな落語祭りをやって下さって。 米朝師匠 ありがとうございました。 米朝師匠 ありがとうございました。 そもそも女性が腹を立てる イライラするっていうのは機能上 しかたがないことなんですね。 これ 地雷がないとつまり 夫があまりにも出来がよくてそうすると自分にいきますよねこのイライラが。

これは マニュアル車のクラッチペダルみたいなもんで加速する時も減速する時もクラッチペダルを踏む。 もう片方も 「4月はフィリピンマンゴーの最盛期なのよ。 そのころ ライトフライ級の11回が新記録だったんですよ 世界の。 まあ 沖縄だからよっしゃ~ 最後沖縄で試合をしなくちゃいけないと。 ボクシングしてから ず~っと僕はアイスクリーム食べてるんですよ。

バラエティーに出ようと思ったきっかけはやっぱり こう今まで演歌を聴いたことない若い方にちょっとでも 演歌歌手の存在を知ってもらいたいなって思ってで いろんなことにチャレンジするとサイン会とか 握手会とかキャンペーンをやると女子高生の子とかが雑誌を抱えて演歌雑誌を抱えて「あっ 丘さんに会いに来ました」って「いつも服 どこで買ってるんですか」とかそういうふうに 何か女子高生の方が来て下さるようになってすごくよかったなと。

中年ボクサーだから」っつってで ちょっと日焼けしてもらおうかなんか言ってそうですか 分かりましたっつってそれなら別にセリフないしなただ いっぱいボクサーがいてその中に こうやって中年ボクサーやってるだけなんだろうなと思ってちょっと 軽く考えてたんですよね。 そしたら 助監督が「あっ モロさん!これ 今日の分のセリフだから」。 それも一生懸命… 午後から撮るからとかって 午前中 一生懸命 覚えて。 でも 女房にも今日 休むとは言えないしまた 行ったら また助監督が「これ 今日の分のセリフ」。

ある時私がテレビに出始めたじゃないですか。 で 落語会のプログラムに「これからテレビに出るんだ。 どうしようか」みたいなこと書いたら先生 真っ先に自分のコラムで「志らくは テレビで売れ損なったから面白いんじゃないか」と。 ところが今はね テレビは古典ですよ。 テレビは古典。 あっ もう ネットとかYouTubeだとか もう…。 だから テレビに出るのはねすごく舞台…新橋演舞場に出るようなもんだね。 それで 昭和33年に初めて ご招待して頂きましてこれは 「ハピネスソング」というふうに言われて。