皆で力を合わせ 天皇家のディナーを調べ新メニュー 開発しましょう。 ということで私は ミカドのスタッフと力を合わせ新メニューを開発することになったのです古式ゆかしい皇室行事が行われる中国内外の賓客をもてなした 饗宴の儀歴史の動きまで決めてしまう驚くべきものばかりでした皆さん 和食のルーツをご存じでしょうか?それは 飛鳥時代国家の危機に立ち向かったさあ 皆さん 今夜は 天皇のディナーをその秘められた物語と共に味わっていきましょういやいや 料理はね インパクトですよ。
秋山が 料理に使った食材は昭和5年に 静岡県の行幸があってその際 うちの池にも来られたんですよ。 あっ そうですよね!軍服姿の昭和天皇が養鼈場の視察に来ました。 この養鼈場は 皇太子殿下のお口添えで特に立ち寄られただけあって宮様もスッポンには大変 興味深いご様子でした。 歴代の天皇が愛したスッポンで秋山はどんな料理をつくったのでしょうか?スッポンのコンソメスープが登場します。 スッポン イコール和のイメージが強いのでこれが どういうふうになるのかが全く想像つかないというか。
やっぱり外交と食っていうのは本当に密接な関わりっていうのは古代の それこそ古代ローマ時代からあったって言っていいと思うんですけども19世紀の外交官 フランスの外交官でタレーランって人がいましてウィーン会議の時に彼は その外交に余計な書類などは要らないというふうに言ったんですね。 後醍醐天皇が津山にお泊まりになった時に都を追放され 津山を通り隠岐へと島流し。
だから 多分 後醍醐天皇もそれに一歩足を踏み入れたような状態だったのかなと思います。 まあ いわゆる この天皇のディナー調査してきたわけなんですけども何か ちょっとねえこの質素な もみみたいなのとさっきみたいな 豪華な宮中晩餐会。 天武天皇は 日本人の食生活を変えるある政策を打ち出しました。 そんな中 即位したのが天武天皇でした。 天武天皇は 史上初めて ある儀式を確立したと考えられています。 その仕組みを確立させたのが天武天皇だといいます。
こちらが天武天皇が こだわったお米です。 この茶色い これ お味噌みたいなこれは なんですか?醤と呼ばれる当時の古代の調味料ですね。 天武天皇のディナーは国家統一への強い思いが凝縮されていたのかもしれません。 「魚」に この「醤」と書いた魚醤ってのがものすごい大事な調味料でで 皇帝レベルになると今度は それを 例えばウツボの臓物から作ったりとかすごく…この味覚ってのは繊細なものも感じることができるんだというこのチャレンジが出した結果みたいなものがこういう調味料だと思うんですけど。
明治天皇のディナーもまた日本人の食の原点となったのです。 小西さんは 日本料理の一流派生間流の式庖丁を正式に継承する料理人です。 生間流は 平安時代の中頃から明治時代まで将軍家や天皇家の料理人を務めてきたといいます。 贅を尽くした料理で天皇をもてなしました。 天皇や公家に対しては「禁中並公家諸法度」を制定してちょう愛する女官と子をもうけていたことが発覚。 後水尾天皇は幕府の傍若無人な振る舞いに嫌気がさし譲位すると言い始めました。 寛永3年 後水尾天皇を二条城に招待し盛大な料理で もてなすことにしたのです。
徳川家が天皇をもてなした究極の料理。 後水尾天皇を驚かせた数々の料理で幕府の権勢を見せつけた徳川家。 秀忠の思惑 どうご覧になりますか?まあ 二条城ってのは徳川家の天下を治める城ですからそこに まあ 後水尾天皇を招待してこれだけごちそうすることによってですね徳川家と天皇家っていうのが本当にいい関係にあるってことを天下にアピールするそういう意味があるんですね。 いや これ 後水尾天皇初めての このふわふわ食べた時驚いたと思いますけれども。
後桜町上皇は民衆を慈しむことを君主の務めと考え夏の短い間しか出回らない貴重な果物でした。 後桜町上皇は 宮中で食べる一夏の贅沢品を民衆に配ることで天皇直筆の文書が残されています。 光格天皇 そのあとの天皇などはしっかり…和りんごで天皇に対する民衆の思いが変わっていってそれが もしかしたら ちょっと強引かもしれませんけど幕末にもつながってた可能性っていうのは あると思うんですよね。 本来 天皇はね学問に集中するということで実際の政治には口が出せないはずなのにまあ 民衆のためということで口を出したわけですね。