今年10月には フランスの最高勲章…日本人映画監督としては黒澤 明に次いで32年ぶりの快挙です。 戦後復興期の下町を舞台に北野家の日常を描きました。 なぜ さきはそこまで「教育」にこだわったのか?そもそも北野家とはどんな家だったのか?「たけしくん、ハイ!」ではそうした背景は描かれていませんでした。 嬢は 本名を北野うしと言い明治6年9月をもって阿波国 徳島通町2丁目に生まれる」。 明治の頃 うしの実家があった 2丁目には人気娘義太夫としてうしが紹介された雑誌です。 順風満帆だった粉問屋を営む北野家。
並み居る女義太夫を抑えうし竹本八重子は東前頭の6枚目まで上昇。 明治37年傾いた徳島の実家を救うため東京の寄席で孤軍奮闘する うし。 大正7年の卒業生名簿からさきの旧姓と実家の住所が分かりました。 それで…14歳のさきは職業あっせん所の紹介で山家の奉公人になったといいます。 自分の分は全て奉公人頭に渡し裁縫のいろはを教えてほしいと懇願したのです。 奉公人の部屋に 山家夫人が主人のはかまを持って現れました。 稽古をつけるのはかつて活躍した 女義太夫…この時 稽古部屋の世話係になった奉公人。
うしの おいっ子で漆職人の正端菊次郎。 自らのルーツを一切語らなかった菊次郎。 まず 明治32年生まれの菊次郎の戸籍をひもときます。 菊次郎の父 つまり武の祖父にあたるのは正端友八。 菊次郎は 次男として浅草に生まれました。 「菊次郎の正端家が いつの時代に徳島から上京したのか?」。 うしは 菊次郎が おいにあたると晩年まで家族に話しています。 寡黙で 人のよさそうな菊次郎にさきも好印象を抱きました。 値段の張る漆の仕事が減り菊次郎は ペンキ職人として再出発していました。
明治大学工学部工業化学科に入学。 そして 昭和40年さきに尻をたたかれ続けた武は…母の言いつけに従い入学した工学部機械科。 昭和47年 武が向かった先は浅草のストリップ劇場。 ショーの合間に行われるコントや漫才が人気を博し連日 大盛況でした。 偽善や建て前を笑い飛ばす…従来の正統派漫才を根底から覆すスタイルはお笑い界に賛否両論を巻き起こします。 音信不通になっていたきょうだいたちは突如テレビ画面に現れた武に驚きます。 大学の工学部をやめ芸人という未知の世界へ飛び込んだ息子 武。