えっ?昨日食べたものさえも覚えてないじゃない。 10年前 盛岡市で家族3人で暮らしている時に地震が起きました。 「たまたま 田舎から遊びに来ていた母がカセットコンロで何かを揚げていたのです。 心のこもった料理を準備して私を待ってくれた家族に感謝しながら」。 ろうそくの明かりに浮かぶ家族の笑顔と 窓の外の星空が私たちに 困難に負けずに生きていく希望を与えてくれました」。 娘も 春から親元を離れて専門学校生に。 冷凍庫に入れていた鮎が停電で解け食べきれないというのです。
「地震で電気・ガス・水道全てがストップ。 停電した冷蔵庫から冷凍保存していた焼き鳥を持ち出して玄関前で炭火で焼き始めると寒い中近所の人 通りかかった見知らぬ人皆さんいい匂いですねと立ち寄るのでどうぞ どうぞ。 ひっとさん 今回おでんの具は何だったんですか?小学校の体育館での避難生活の中で何かできたらと 被災した仲間たちと協力しエプロン隊というグループを作りました。 頂いた物資を無駄にしないようにあの日 仙台でも 電気や水道などのライフラインが止まり 小学校に避難。
単調になりがちな避難所での食事。 スープ… スープか!そして レトルトのハヤシライス。 知恵と工夫で避難所の人たちの心と体を温めた思い出レシピです。 相澤さんたちエプロン隊は避難所生活以降も食を通じた交流を続けています。 やっぱり 震災直後にその避難所に行ってこういう食事作りを担当してる方々にお話 聞くと本当に ちょっとの変化が大切なんですっていうことを皆さん おっしゃるんですよね。 避難生活が長引いていくと今度は やっぱり食欲がなくなっていったりっていうことがあったりしますよね。
だから ふだんからキャンプ活動とか 野外活動とかそれこそ ボーイスカウトとかガールスカウトとかの活動に携わってる子たちが 火のおこし方が分かったりとかっていうことでえ~ 「蒸しパン入りきらずホームページで公開番組のQRコードから」。 「福島県富岡町に住んでいた私はあの日 娘の中学校の卒業式に出席をしたあと国道6号線沿いの洋食屋さんで本当ならハンバーグランチを食べたかったのですが礼服がきつくて グラタンを食べました。
手がかりは ピコムさんに残されている10年前の かすかな記憶。 調査を始めたのはピコムさんが地震に遭った神田からお茶の水の辺り。 この辺りは都内屈指のカレー店の激戦区。 その 関東圏のモスクイスラームの人たちが…。 だって おいしいもん…言葉も何も分かんなくてもおいしいもん出してくれておいしいもん食べておいしいというのはもう…全世界共通ですもんね。 宮城県南三陸町のロミオさん。 見知らぬ男性に救助されたあと病院から近くの避難所に私は1人 スリッパのままで移った」。
あれから5年後町の中心に野球場が再建されました。 当時 月に一度の楽しみがお小遣いを握りしめて向かった善助屋食堂でした」。 「震災後 私は役場の職員として避難所の運営に追われる日々。 「善助屋食堂の おかみさんの姿が」。 おっ 投稿してくださった藤澤さんテレビ電話がつながっている。 いや つくづく 食べ物屋さんをやられる方っていうのはさあ 皆さんからですね投稿頂きました思い出レシピはですねお帰りなさい!静岡県 みゆまゆさんからの投稿です。