鎌倉殿サミット2022「源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点」

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この番組のまとめ

日本史に隠されたミステリーをめぐり第一線の専門家たちが真相に迫る歴史サミットシリーズ。 頼朝が切り開いた「武士の時代」を名実ともに決定づける歴史的ターニングポイントとなった戦いの真実とは?今年の「大河ドラマ」の時代考証を務める2人も参戦。 さあ そんな「鎌倉殿サミット」一体 どんなミステリーかというと…太田さん 頼朝の死にミステリーがあるっていうのは知ってました?いや 知らなかったですね。

同じ時代を生きた公家 九条兼実は頼朝を「威厳・個性公明公正さ決断力を兼ね備えていた」と書き僧侶 慈円は「ぬけたる器量の人」飛び抜けた才能の持ち主だと絶賛している。 この「吾妻鏡」には確かに頼朝の死因として「落馬」と書かれているのだが実は不自然な点があるのだ。 奇妙なことに 「吾妻鏡」には頼朝が亡くなった建久10年以前の3年間がすっぽりと欠落。 頼朝の死因は ずばり落馬説なのかフリップにお書き下さい。

現代の我々から見るとね怨霊説って 怨霊…?まあ でもね頼朝と義経の血で血を洗うというか野村さんも「ありかも?」ってちょっとありますけど。 そうすると 原因は怨霊だっていう説が最初に出てきたのは南北朝時代からっていうことになっちゃうので頼朝が亡くなってからでも100年以上たっているからその内容自体は きっと あとの人たちがこうじゃないかと つくった話だろうと。 源頼朝は 結構 信心深い人で怨霊には ほかの人たち以上におびえてるんですよ。

つまり その前の100年間 土地の開発がバ~っと進んだんですけれどもそうすると 兄弟同士で争わなくちゃいけないんですよ。 この血族を殺すっていうことに関してはどう思います?そうですね 先ほど近藤先生がおっしゃってましたけど一般の武士でも 兄弟であるいは いとこで おじおいで血みどろの戦いをするっていうのがあったんですね。 頼朝は 鶴岡八幡宮など怨霊対策もしており弟 義経をはじめとする怨霊を恐れていた可能性自体はあるようだ。

彼が集めた段階で 源頼朝のイメージダウンになるところは捨てさせたって話があるんですよ。 例えば 頼朝の妻の北条政子の場合には雨乞いを成功させて死ぬという非常に立派な死に方をしているんですね。 考えられるのは 頼朝により…とはいえ この頼朝暗殺説を裏付ける史料や証拠は歌舞伎や浮世絵などで取り上げられてきた有名な話。 頼朝の側近であった工藤祐経に父を殺された曽我兄弟が敵討ちを果たしたという史実をもとにした実話だが盛大なイベント巻狩を行った。 そこに 曽我兄弟と父の敵である工藤祐経も参加。

守護・地頭を任命する権限を手に入れた頼朝は全国各地に自分に従う御家人を配置することができ更に御家人も 徴収した税から分け前をもらうことができた。 大正時代 歴史学者の三浦周行は曽我事件の裏には頼朝暗殺を狙う黒幕がいたと主張している。 曽我兄弟仇討事件の後 頼朝は将来 自分に仇をなす可能性がある有力御家人たちを 次々と粛清していく。

頼朝が征夷大将軍に任命されたこの年を鎌倉幕府の成立年とする説が古くから教科書に載っていた。 語呂合わせは…しかし 実は「いいくに」や「いいはこ」以外にもそれは 「頼朝が どんな国を目指していたのか?」によって幕府が成立したとする根拠が変わりまず 伊豆を治めていた山木兼隆を討った。 頼朝はそこに「武家」も加わり3つの「権門」で天皇を支えるという伝統的な国のかたちを継承しようとしていたとする考えで「権門体制論」と呼ばれている。

それに対して佐伯さんはどうでしょうか?今のお話で言うと頼朝自身は頼朝としては 挙兵した翌年にはもう後白河法皇に対していや 私は 平家と和睦してあなたの下で仕えますっていうことをまあ 同じ意見ですよね。 頼朝自身がそういうふうに考えてたということを。 本郷先生は どうですか?あっ 僕 今の近藤先生の意見に賛成です。 野村さんも「軍事担当の権門」っていうことは権門体制論ということなんですか。

頼朝が目指したビジョンは「自立した国家」かそれとも 平安時代から続く「国のかたちの延長線上」にあったものだったのか?しかし どちらを取るにしても頼朝に朝廷を滅ぼす意思はなく日本というまとまりを意識していたという点では 一致した。 ♪~初代将軍 頼朝の死のミステリーに迫った「鎌倉殿サミット」前半戦。 果たして「吾妻鏡」に記されていることの何が真実で 何がうそなのか?「鎌倉殿サミット」後半戦は頼朝の死後 鎌倉幕府で本当は何があったのか大激論。

頼家が 生死の境をさまよっている間にその跡継ぎを無断で頼家の嫡男 一幡そして 一幡は 東日本実朝は 西日本と更に 北条時政 義時 親子の兵が頼家の長男 一幡を二代将軍 頼家の死について「吾妻鏡」には…北条氏は 御家人の中で突出した力を持つことになるのである。

二代将軍 頼家亡きあと北条氏の後ろ盾のもと12歳で跡を継いだ実朝。 太田さん どうですか?その僕が読んだ「右大臣実朝」で言うとね実朝なんていうのはいわゆる和歌というか「古今和歌集」であるとか京都の教養みたいなことってものすごく兼ね備えていたわけでしょう?だから そこが実朝理解に関わってくるんだけど僕なんかは 本当に関東の武士たちの中ですごく安定した立場にいたらそういうことですか。

北条政子を長年研究してきた野村育世さんは こう語る。 歴史上 鎌倉将軍は源氏三代のあと京から来た頼経が四代目とされている。 しかし 「吾妻鏡」の目録には将軍 頼朝 頼家 実朝のあとに政子の名前。 これは 実朝の死から政子の死までの間は「政子の治世」であり頼朝の遺志を受け継ぐ実質的な四代目として政子が幕府を動かしていたことを示している。 北条政子は 源氏側か北条氏側か何を考えていたのか。

親分衆同士の中に いがみ合いがあれば調停役を務めたのは息子に 別にそれを望んだわけではないと。 鎌倉時代に起こった歴史的大事件「承久の乱」を描いた…そして…本当にうれしかって すごい感無量でした。 後鳥羽上皇が鎌倉に攻めてくることを御家人に伝えこう げきを飛ばしたという。 上皇側は…後鳥羽上皇は…今回 長村さんが80年ぶりに見つけたという「承久記絵巻」の複製。 ちょうどですね左上の北条義時のところに三浦義村が手紙を持ってやって来てるっていう場面。

あの まあ やっぱりこの乱の結果として後鳥羽上皇 順徳上皇 土御門上皇と3人の上皇が隠岐とか佐渡とかに流されるっていう前代未聞の出来事になりじゃあ 鎌倉幕府 朝廷とか院政とか廃止したかっていうとそんなこともなくってやっぱり後鳥羽院の兄を新しい治天の君にして院政は継続させたわけですね。